COLUMN インカやプレ・インカの風

1970年代のマチュピチュ

アグアス・カリエンテス
 私がはじめてマチュピチュに向かったのは1975年である。当時、クスコとマチュピチュ間を往復する列車は日に1~2本程度だった。その少ない列車はいつも満員。観光客とマチュピチュ下流側にあるキリャバンバ方面に向かう、荷物を抱えた乗客がいっしょだったからである。AMJ01.jpg
*キリャバンバ方面への鉄道は、1980年代はじめに発生した巨大ワイコ(土石流)によって押し流されて廃線になった
 外国人の若者旅行者たちの多くが、マチュピチュ駅のひとつ手前にあった現マチュピチュ村(旧アグアス・カリエンテス)駅で下車していた。AMJ023.jpg
 宿は2軒ほど、部屋はベッド数個が並ぶ相部屋だけだった。線路沿いに1~2軒あった食堂の中に日系人の店「AIKO]があった。
 私たち若者(私も若かった)は早起きし、朝の5時には宿を出発する。線路沿いにトンネルを潜り抜け、橋(プエント・デ・ルイナス)を渡ってからインカの石段を約2時間かけて登って遺跡に辿り着く。
 マチュピチュ行きのバスが遺跡に向かうのは、一番列車が到着した後の11時過ぎ。そのことから朝7、8時のマチュピチュにはまだ人影が見られなかった。マチュピチュ正面に立つワイナピチュ峰を包むようにして、ビルカノタ川の谷間から霧が湧いていた。
*マチュピチュ下部を流れる川の名をウルバンバとも呼ばれているが、ペルー政府作成の地図ではビルカノタ川がアルト・ウルバンバ(高地ウルバンバ)川に変わるのはもっと下流側、ヤナティレという川との合流点からである。そのさらに下流側にあるポンゴ・マイニケという激流地点を過ぎてから、ウルバンバと川の名が変わる。昔からクスコの人は上流側をウルバンバ川とはいわずビルカノタ川と呼んでいる。インカ時代は「聖なる谷間」(ピサク、カルカ、ユカイ、ウルバンバあたり)ではユカイ川と呼んでいたようだ。
 2回目に出かけたのは1977年であった。このときは満月下のマチュピチュを撮影したくて、リマ市の文化庁(現文化省)にて特別許可をもらって出かける。満月の日、一晩のみで成功すると思った私は、遺跡下部にあるホテル・トゥーリスタという高級国立ホテル(当時)を宿とした。そのころのレートは1ドル300円。ホテル料金は約75ドルだった。
深夜のマチュピチュ
 私の対応をしてくれたのが、当時はホテル下にあった小屋に住んでいた50歳ほどの遺跡番、クレメンテ・キスペだった。夜7時過ぎ、私を無人のマチュピチュ内に送り出した彼は「あとから自分も登っていくから」といった。私一人、見張り棟近くで満月の到来を待っていたが、夕方から湧いてきた霧は晴れるどころか濃さを増す一方だった。
 時間をつぶすために持参したピスコ酒を飲みながら喉を潤していた。8時半過ぎに下方向からキスペが照らす懐中電灯の明かりが見えた。彼は近くにあらわれるなり、私が手にしていたピスコ瓶を目にするなり、「なんだ、一人で飲んでいたのか、だから晴れないんだ」といった。
 そのあと、私が手渡ししたピスコ瓶を受け取り、アプー(大自然の偉大な存在、大自然神)が、まわりの峰々からすべてを見ておられる、日本人が一人で飲んでいることも決して見逃してはいない」といった。
 それから手の平にこぼした酒を、峰々や大地の神「パチャママ(大地母神)」にふり撒いたあと、夜空に向かって祈りの言葉を口にした。そのつぶやきは真に迫っていた。
「さあ、神も日本人の願いを聞いてくれた、これで空が晴れてくれるはずだ」
 といわれたときは、暗雲に覆われたマチュピチュに月光が差してくる思いがしてきた。雲が流れ、真っ暗だった夜空が薄白く変化しはじめた。ほんとうにキスペの祈祷効果があらわれはじめたという希望がわいてきた。だが、変化はそこまで、ふたたび暗雲に閉ざされた。
 やがて突然話題を変え、「ところで、自分でもよくわからない不思議なことがあったんだ、セニョールはどう思うか」と私に尋ねた。
 彼は何年か前、夜中に遺跡広場あたりから、満月のような光の塊がふわりと浮き上がり、それから西側にある山(サン・ミゲル峰)方向に流れていくのを目にしたという。その満月に似た白い塊が何だったのか何年考えてもわからないと悩んでいたのである。
 10時を過ぎてから、彼は私に遺跡の外へと抜け出る秘密の道を教えてから姿を消した。それからも私一人で、もしかしたら奇跡の月光が遺跡を照らすかもしれないという期待を持ちながら待機し続けた。だが、空に変化はあらわれてくれず、1時を過ぎたころに帰路に着く。
 月明りに包まれたマチュピチュを撮影できなかったことが悔やまれた。かといって、ホテル代が高かったのでそれ以上の滞在はとても不可能だった。
 翌日、私は「残念だ、月が出てきてくれなかった」と嘆きながら、ホテルを退出しようとしていたら、40代前半の男が、「今日から1週間クスコに出かけてくるから、自分の部屋を使っていい」といってくれた。
 彼は、ホテル内の一室を仕事部屋にしていた建築技師であった。その言葉に甘えて彼の部屋に滞在し、夜のマチュピチュに通い続けた。それでも結果的に月明かりの撮影は不成功に終わった。
 あとから知ったことだが、マチュピチュはたとえ乾期であっても、夕方から必ずといっていいほど霧に包まれていた。アンデスでもアマゾンでも、満月や新月の日は天候が崩れることが多かった。
 当時のマチュピチュは訪れる人も少なくのんびりとしていた。アグアス・カリエンテスの宿も、番人キスペも建築技師も懐かしく思い出されてくる。このあと、キスペとは彼が他界するまで何度もマチュピチュで顔を合わせ、お互いに再会を祝い合った。
 やはりマチュピチュで働いていた、キスペ似の顔をした弟とは以後も友人である。建築技師とはクスコでばったり会って何度かビールを飲み交わした。
 この時代、日系2世のワタナベという若い考古学者が、麓の「マチュピチュ博物館づくり」をしていた。それ以後、マチュピチュを通じて多くの文化庁の研究者と親交が生まれた。クスコ市内で飲み仲間となった学生たちの何人かが、以後、文化省に就職し、中にはマチュピチュで働いていた者もいた。
 20年前ごろからマチュピチュの責任者を続けている文化省のフェルナンド・アステテには、マチュピチュへ向かうつどずいぶんお世話になった。
 また、若いときからマチュピチュをはじめとした、数々の遺跡で発掘調査を続けてきた同省のペドロ・タカとは30年来の親交がある。彼は私が『インカを歩く』を刊行する前はいっしょにマチュピチュに2日間出かけてくれたほか、インカ道調査の随員として私を1週間仲間に加えてくれた。
 最初のマチュピチュ以後、30回以上も足を向けたのもこうしたマチュピチュ関係者の親切があったからである。(09・2014)
写真説明:上はマチュピチュや岩峰ワイナピチュを囲むビルカノタ川。下は遺跡内でくつろぐリャマとアンデスウサギのビスカチャ
拙著『インカを歩く』『マチュピチュー天空の聖殿』にマチュピチュのことが詳しく記されています。

野生蘭と結びつくマチュピチュ
遺跡と雲霧林
 私がマチュピチュに通いはじめて気づいたのは、遺跡を囲むセハ・デ・セルバという森が野生蘭の棲息地であったことである。セハ・デ・セルバとは「眉・横雲の森」ということになるが、アンデスの東側山系の斜面地に多い雲霧林を意味する。AMB01z.jpg
 1980年代後半から90年代後半にかけて、マチュピチュをはじめとしたビルカバンバ山群の山峡や北ペルーのアマゾナス県を歩きまわっていた。目的のひとつはインカやアマゾナス県のチャチャポヤス文明の遺跡、もうひとつは野生蘭であった。ビルカバンバ山群やアマゾナス県については、いずれ、本コラム欄で紹介するとして、ここではマチュピチュの地形や気象気温について触れることにしたい。
 私がマチュピチュへ通いはじめたのはきっかけは、クスコ市方面で風邪気味になりかけたときは、迷わずマチュピチュへと足を向けていたからである。マチュピチュでひと汗かけば風邪が治っていた。
 野生蘭に興味を持ちはじめた1980年代後半の12月ごろ、私は日本から高級温湿計を持参してマチュピチュへと向かった。宿は現マチュピチュ村の駅ホームに新設されたホテルだった。室内に置いた計器は2日目に私が抱いていた期待を裏切った。雨の多さや霧の深さに応じて湿度計の目盛りは変化していたが、温度計の針は20℃あたりを指したままだったからである。
 計器が壊れたと考えた私は、悔しさからいっそ川の中に捨てようかとも思ったが、せめて湿度計だけで我慢しようと思い直し、「聖なる谷間」内にあるカルカという町に出かけた。
 滞在したのは天井がガラス張りの安宿。部屋の中は、朝は肌寒くても真昼は日差しが当たって暑かった。午後、何気なく温湿度計を見たら、動かないはずだった温度計の目盛りが30℃あたりを超えていた。計器は正常に作動していたのである。
 マチュピチュの日陰や室内は、20℃あたりで安定していたことになる。この20℃というのは寒くもなく暑くもなく、人間が住む環境にもっともふさわしい快適な温度になるに違いない。AMAB023.jpg
霧の恵み
 遺跡地帯の海抜は約2400m。下部のビルカノタ川沿いあたりは海抜約2000mである。インカはマチュピチュ建設にあたって、当時の自然信仰から神々が周囲に宿る神聖的な空間、防御面からの地形など、聖殿にふさわしいさまざまな条件に見合う地を探したのであろう。
 その条件の中に、温暖湿潤の地が含められていたに違いない。その際、そこに野生蘭が棲息しているかどうかを、ひとつの目安としていたかもしれない。マチュピチュあたりにいちばん多く見られる蘭はウニャイワイナという。マチュピチュを発したインカ道の奥に、同名の遺跡が残されている。ウニャイワイナとは「とこしえの若々しさ」という意味を持つ。
 10年以上、雨期の山野で野生蘭を追い求めてきた私の体験からすれば、蘭は可憐にして繊細、わがままな植物で、好みの気象や気温などの条件が備わっていない地での棲息は稀である。
 マチュピチュと繋がるインカ道が走る海抜3000m以上の稜線地帯のセハ・デ・セルバにも蘭は見られるが、もっとも集中して棲息している一帯のひとつがマチュピチュである。マチュピチュ周辺は、ビルカノタ川の下流側から昇ってくる温暖な気流と高地側からの寒冷な気流がぶつかって霧が多く発生する。
 そこがそのまま、蘭の絶好の棲息地でもある雲霧林になっているのである。地生蘭も多く見られるが、もっとも豊富に棲息しているのが森林内の苔とともに生きている着生蘭である。
 この苔と蘭の関係は、蘭が苔に生命を一蓮托生した関係で結ばれている。
 苔が蘭への応援力を発揮するのは何といっても乾期である。10数年前ごろ、ワイナピチュ峰の断崖北西側から上がった野火が、10日間近く、岩壁に張りついていたセハ・デ・セルバをなめつくし、遺跡まで近づいてきたことがある。このように勢いを持った山火事に対して乾期の雲霧林はひとたまりもなかった。枯れ藻同然の苔が密生しているからである。
 そのような苔を日々潤しているのが、朝夕に湧き、森の中にくまなく浸透していく霧である
 霧の運ぶ水分を苔が吸収し、その水分を根をからませている蘭に届ける。蘭は、そうして乾ききった季節の中で生命を繋ぎ、やがて雨が降り注ぐ雨期に蕾をふくらませ、花を咲かせているのだ。この蘭と苔が共生している森の近くに都市を建造していたところにインカの秘密がある。
 それは、蘭が好む20℃あたりの気温に包まれているという以外に、水がいつも確保できるという利点があったからになる。
 北ペルーのチャチャポヤス族は、雲霧林直下の草むら斜面に石づくりの大きな縦井戸を設けていた。同様に、マチュピチュ峰に至るまでのセハ・デ・セルバもまた、苔が吸収した水を乾期であってもしっかりと貯えていた。
 インカはマチュピチュのすぐ上部に、年間を通じて涸れないプキオ(清水)を見つけていた。その水を現在はホテルが利用している。また、マチュピチュに見られるアンデネス(階段畑)に水を引く水路は、主に住む人々の生活水用のみで十分であった。作物への水は霧が朝夕に運んでくれていたからである。
 マチュピチュへと向かってくるインカ道が通過するプヨパタ・マルカに(霧の高地テラスの意味)、インカの宿舎とアンデネスが残されている。ここは海抜約3600mの高度を持つ稜線にもかかわらず、天水ともいえるプキオが乾期でも流れ落ちている。
 この水があるのも、稜線裏側に密度濃く雲霧林が茂っているからである。その藪の中にも野生蘭が見られる。野生蘭をシンボルとし、霧、苔、水、雲霧林などが結びついた湿潤の気候が、マチュピチュを、あるいはマチュピチュ周辺を包んでいる。それをすぐれたエコロジー感覚を持っていたインカは読んで利用していたのである。(09・2014)
写真:上は雨期の霧に包まれたマチュピチュ。下はマチュピチュ周辺で見られる地生蘭。
拙著『マチュピチュー天空の聖殿』でも野生蘭に触れています。

新世界遺産王道カパック・ニャン
「道について」
 インカ帝国は、南北数千キロといわれる広大な領土に、カパック・ニャンという王道(大街道、幹線道)を縦横に張りめぐらしていた。
 海岸、高地、亜熱帯熱帯を貫き、それらが帝国内に点在していた要所と要所を結んでいた。
 話は少しそれるが、最初は広い意味での「道」そのものについて触れてみたい。2013Cusco.jpg
 大昔は足で歩く道だけが「道」であった。それからしだいに「道」は増え、水路や海路などが「道」になった。日本の戦国時代、織田信長は海路を戦略と交易に利用する大切さから、海賊の首領だった九鬼嘉隆を味方にして新型の軍艦を建造させた。
 どこの国でも、時代が進むとともに「道」はもっと多方面にわたって広がり、徒歩道から、すでに記した水路、海路、さらに自動車道、鉄道、航空路、やがて通信ケーブル網、通信無線網までが「道」として、文化文明に革命的変化をもたらしてきた。この先、どのような「道」が時代を席巻していくかの予測もつかない。
 そういう未来の道を想像することは難しくても、昔を振り返ることは可能である。どこの国でも「道」が軸となって人と人がつながり、物資や文化の流通や交流が盛んになって国づくりが進められてきた。「道」によって人が住んでいる世界の質が変わってきた。地形的、時間的、距離的な空間が刻々と変化してきた。それまでつながっていなかった地方と地方が結びついて文化と文化、文明と文明が融合してきた。
 「道」が秘め持つテーマは限りなく広くて深い。果たしてインカ帝国はカパック・ニャンに何を求め、何を託していたのだろうか。
 怒涛のごとく広大な領土を広げたインカ帝国が、どのような帝国づくりを目指していたのかは漠然としている。だが、そこに手がかりの光を与えてくれているのが現存しているカパック・ニャンである。
神殿都市や辺境の地へ向けて
 インカは、以前から文明が育まれ、有力部族が支配していた地方を征服した。そのあと、支配のための要所的地区を定め、自分たちの神である太陽を祀る太陽神殿を建設し、同時に直轄の町づくりをした。おもなところでは、ペルー中央部海岸のパチャヤカマ(以前の王族のパチャカマ神殿を破壊せず、インカの豪壮な神殿を建設した)、中央部高地のビルカスワマンやハウハ、北部のワヌコパンパやマルカ・ワマチュコ、カハマルカ、エクアドルのインガビルカなどである。
 それらのインカの新神殿都市と新神殿都市をカパック・ニャンが結び、クスコの都につないでいた。それは、太陽神を中軸として広い領土を治め、それぞれの新神殿都市を取り囲む地方から得られる産物を循環させようとした狙いがあったからでもある。BJTX.jpg
 その一方、神殿や都市づくりを目的としない地方に向かっても壮大なカパック・ニャンを何本か築いていた。それらを目にしたとき、インカが国を支えるためにどんな産物や物資を求めていたのかを教えられた。
 例として挙げるとすれば、ひとつは魚介である。寒流が流れるペルー沖は魚介類の宝庫で、数千年前から沙漠で生きる人たちは漁に励んでいた。そればかりにではなく、インカ時代は貝や魚、藻(コチャユユ)類などを小石を並べた乾燥場で乾燥し、クンティ・スユ(西方圏)を貫く大インカ道によって、クスコやティティカカ湖方面へと運んでいた。その乾燥場や倉庫が南部地方の海岸に残されている。
 ほかの例として挙げられるのは、金や銀、コカの葉である。海抜数千mのボリビアの峠や山頂部をタケシ、チョロという2本の大インカ道が越えている。タケシは昔からコカ栽培地として有名なチュルマニ方面へ、チョロはやはり昔から金山地帯として有名なカラナビ方面面へとつながっていた。いずれも地方も亜熱帯地方である。
 クロニスタ(年代記作者)たちの記録を読むと、インカ時代の黄金やコカについてたびたび記されているが、それらの書物からではインカが金やコカをどのようにして集め、運んでいたかを想像することは難しい。だが、アンデス山中に残されているタケシやチョロ道を目にすることによって、何千という数のリャマの背に黄金やコカを載せて暑い地方から寒冷の山岳地へ登ってくるキャラバンの様子を思い浮かべることができた。
 ここに記したカパック・ニャンはわずか2例でしかない。各地方に張りめぐらされた大インカ道、あるいはかすかに残されている支線インカ道に目を向ければ、どこでどんな荷物が運ばれていたか、どんな使命や任務を持った集団が行き来していたか、などについてもっと多くのことを伺い知ることができるに違いない。
 また、インカは強制移住策によって、人跡未踏の地にまで作物や果実の栽培地を広げようとしていたが、それらの開拓地がどの方面にあり、そこがどんな気候地にあるかなどを推理していくことも可能である。
 そうしたインカの道が、広大なアンデスを舞台としてインカがどんな国づくりを目指していたかを知る鍵を秘めているように思われてくる。
世界遺産登録を目指した国際セレモニー 
 2013年の5月、私がクスコ市に滞在中、「太陽の神殿」の庭ではカパック・ニャンの世界遺産登録を求めて、関係六カ国(コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリ)の代表が一同に介したセレモニーがなごやかに行われていた。
 ペルー側からは文化省の大臣、ユニスコからはラテン・アメリカ管轄長である女性が列席していた。アルゼンチン代表は、昔からアンデス文化の源だった意味をこめてクスコを何度も「マドレ(聖母)」と呼び、エクアドル代表の女性は、「カパック・ニャンで結ばれた兄弟諸国が、希望ある未来にいっしょに進んでいこう」と訴え、ユネスコから参加した女性はメモしたケチュア語を混ぜて演説し、盛大な拍手を受けていた。
 アンデス山脈に連なる国々は、かつて領土問題からの戦争があったりしてそい関係は順風ではなかった。だが、それらの国々は本来、インカの築いたカパック・ニャンという大街道によって結ばれていたのである。
 ペルーを中心とした国々が世界遺産登録を目指して申請し続けていたが、本年6月、ついに登録が果たされた。この世界遺産は6カ国が共同申請していたというところに、珍しさと貴重さが含まれている。さらに、対立していた国々が平和で結ばれるというすばらしいテーマも含まれているのである。
 新設の道路や鉱山開発などによって、つぎつぎと壊されていたインカの街道であるが、奥深い山岳地や人の気配のない海岸地帯に昔のまま残されている。それらが守られることによって、今後そこからさらにインカが望んだ国家像や流通スタイルを伺い知ることができるに違いない。(09・2014)
写真:上は2013年、太陽の神殿の庭で開催された世界遺産登録を求める国際セレモニー。演壇に立つペルー文化省クスコ支所長(当時)とおもな列席者。左側からアルゼンチン、ボリビア、コロンビア、チリ(女性)、エクアドル(女性)の各代表、ペルー文化大臣、ユネスコ(女性)。下左はクスコ市近郊に残されている海岸方面へのびていたカパック・ニャン。コカ栽培地である亜熱帯方向にのびていたボリビアノタケシ道。
カパック・ニャンについては、拙著『インカ帝国―大街道を行く』に豊富な写真とともに詳しく触れています。

インカの聖域ビルカバンバ

ビルカバンバの自然 
 ビルカバンバ地方というのは、コルディジェーラ・ビルカバンバと呼ばれている山群内にある。
 コルディジエーラと呼ばれる高峰が集中する山群はペルーやボリビアに幾つもある。それらを歩きまわってきた私がもっとも地形変化に富んでいると思ったのが、マチュピチュの西南に位置するサルカンタイ(野生の主のような意味)を主峰とするビルカバンバ山群であった
 アマゾン川の大支流でもあるアプリマク川とビルカノタ川の深い谷間にはさまれたこの山群には、サルカンタイや第2の高峰プマシリョ(ピューマの爪のような意味)などを中心とした氷雪の山塊が連なり、そこから急峻な斜面が無数の細い川へと下降し、何本もの峡谷を刻んでいる。 
 高度差は数千メートルの範囲内に寒冷から亜熱帯の気候や自然が混ぜ合わさっている。
 険しい地形に包まれているためか、集落はところどころに点在しているものの、その数は少ない。乾期(5~10月)は清流の川が穏やかに流れている静寂な山間も、雨期(11~4月)は豹変し、どの谷川も怒涛の激流が響かせる轟音に包まれる。そのような谷間地帯を歩き続けることは、いつでもどこでも恐怖の虜になっていた。
 現在は、鉄ケーブルの吊り橋が架けられているソクサ・チンカナという川は、1990年代後半、積み上げられた石垣の上に2、3本の長い丸太が渡してあるだけであった。
 大雨の中、その濡れた丸太を渡るときは、ただひたすら丸太のみを見つめていた。すぐ真下を、もし落下すれば瞬時に100mは流されてしまうであろう泥流が唸り声を上げて流れていたからである。
 こうした川を通過する真昼同様に恐怖だったのが、数少ない平地で野営している夜であった。ゴンゴンと巨石を押し流していく川音を耳にしながら、いつワイコと呼ばれる土石流が襲ってくるか予測できなかったからである。
 1990年代末の12月。私はマチュピチュ直下を流れるビルカノタ川の下流の町サンタ・テレサに住む青年とともに、マチュピチュの西南に位置するアオバンバという峡谷の川に野生蘭を求めて入った。
 大雨の日だった。山道はどこも鬱蒼と茂る草に覆われていた。毒蛇も多い。ほどよい野営地も見つからなかったため、危険を承知で川沿いにテントを張った。翌日、さらに谷間を登りつめていくと、川沿いのいたるところに前年のワイコが通過した跡が見られた。
 さらに上部へと登ると前方に広がっていた急斜面帯(インカ道のプヨパタ・マルカの直下あたり)に、大きな家ほどの規模を持つ岩が数個ころがっていた。それを目にして急遽、この川から撤退することに決めた。
 もし、その岩が一個でも落下すれば瞬時に川をせきとめ、ワイコを発生させると考えたからである。その夜も前日と同じキャンプ地であった。降りしきる大雨の音を聴きながら満足に眠ることもできなかった。
 深夜、私が「おい逃げよう」といって青年をたたき起こしたが、彼は寝ぼけながら、「どこにも逃げるところはない、それに、どこも毒蛇が多い藪だらけだ」といってふたたび眠ってしまった。
 そういわれば確かにその通りであった。翌朝は私が4時起きをしてつくった朝食を胃に流しこみ、2人はその場を撤収した。
 サンタ・テレサに徒歩で鉄道沿いに3時間ほどかけた駆け下りる。私はその日の夜、旧知の役場や町の人に、サンタ・テレサとアオバンバ川にワイコの危険があるといった。 私の言葉を真面目に受け止めてくれた人は誰もいなかった。ただ一人、耳を傾けてくれたのは、いっしょにビールの飲んだ雑貨屋の老人だけであった。
 サンタ・テレサが危ないと判断したのは、1980年代はじめは10数軒だった民家が700軒以上に膨張し、それらの民家が激流が流れる川から1mもない高さの岸辺に沿って並んでいたからである。
 翌年の2月、プマシリョ峰直下から発生した大ワイコがサンタ・テレサの町を半分ほど押し流した。その1カ月後の3月、今度はサルカンタイ峰の氷河が崩壊してアオバンバ川を直撃した。
 このワイコは高さ70mにもいたる大土石流を生んだ。このワイコがふたたびサンタ・テレサを襲って残っていた町並を全滅させた。そればかりではなく、マチュピチュ方面から、さらに下流にあるキリャバンバへと通じていた鉄道を跡形もなく運び去った。
山脈内に点在するインカの都市
 このようなワイコが発生しやすい、峡谷ばかりの山域内にインカはマチュピチュ、はるか下方の谷底を流れるアプリマク川を見下ろせる山稜にチョケキラウ、谷間内の突起した丘の上にビトコス(またはロサス・パタ)、最奥ともいえる鬱蒼とした森の中にエスピリット・パンパ(旧ビルカバンバ)などの城や都市を築いていた。だが、それらの都市は、自然災害を十分予知した安全地帯が選ばれていた。
 私が自著で、「インカの遺跡近くで野営するときは安心できた」というような内容を記しているのはそのためである。
 クスコを中心として15世紀に急成長したインカ帝国は、1633年にスペイン人征服者ピサロたちによって、アタワルパ皇帝が北ペルーのカハマルカで処刑されて実質的に滅亡する。
 その後、クスコに入城したピサロが傀儡皇帝としたマンコ・インカは、のちにクスコを逃げ出して大きな反乱を企てたが失敗する。やがてビルカバンバ地方へと逃亡し、スペイン人に対して抵抗と反乱を繰り返していた。彼の死後もそのあとを受けついだ皇帝たちが、ビルカバンバ地方を拠点として活動していた。
 最後の皇帝ともなる若いトゥパク・アマルがエスピリット・パンパの北東でスペイン人のインカ討伐軍に逮捕されたのは1572年のことである。彼はクスコに連行されて、現在のプラサ・デ・アルマスで斬首刑に処せられた。
 インカと記したが、昔、このビルカバンバ地方が、どのような部族の支配域にあったのか、またはほかの地方とどのような交流があったのかは定かではない。エスピリット・パンパの中央部にあった墳墓からは、文化省クスコ支所の近年の調査によってナスカ文明様式の土器などが発見されている。
 だが、インカは興隆期(15世紀にインカを急成長させた第9代皇帝パチャクティか、それ以後の皇帝時代)に、このビルカバンバを自分たちの聖域として支配していたのであろう。
 エスピリット・パンパ、ビトコス、チョケキラウ、そしてマチュピチュを繋ぐ石畳みの大インカ道を峠や急斜面地に築いていた。また、1572年のスペイン人の討伐隊の侵入を許すまでは、ビトコス以外の都市に伝道のためにあらわれたカトリック修道師たちを一人も立入れさせず、秘密を守り抜いていた。
 マチュピチュから、この山域内にある各都市に通じていたインカ道は、ビルカノタ川沿いをたどるルートもあったが、幹線道ともいえるカパック・ニャン(王道)は、マチュピチュ裏側にある「インカの橋」からマチュピチュ峰の幅数100mの断崖をトラバースして、マチュピチュを西側から見渡せるリャクタ・パタという遺跡が残されている尾根へ、そこから、サンタ・テレサへと流れるサルカンタイ川へと抜けている。
 インカがビルカバンバ地方に求めたものは何であっただろうか。どこもかしこも雲霧林に囲まれている山域である。「野生蘭と結びつくマチュピチュ」でも触れたように、きれいな水や空気を得ようとしていたことは確かである。同時に、この地方の深山秘境が持つ自然の聖域性を求めていたに違いない。(09・1014)
ビルカバンバとインカについては拙著『インカを歩く』、エスピリット・パンパから発掘されたナスカ文明の土器、ビルカバンバ山脈にのびる大インカ道などは拙著『インカ帝国―大街道を行く』に紹介してあります。