COLUMN 現地の食材と料理

トウガラシソース大国
三つの国CCA01234_.jpg
 アンデスの国々を歩き続けて嬉しかったことは、トウガラシ利用の食文化に出会えたことである。
 コロンビアの高地側地方ではすばらしいトウガラシソースにめぐり合った。もっとも忘れられないのはアマゾン側先住民の家で味わった燻製トウガラシの粉末をベースにしたソース、それから町のレストランのテーブルに小瓶に詰められて用意されていた粉末である。
 ボリビアのレストランではトマトとトウガラシを摺り潰した定番ソースを,どこでも味わうことができた。この2つの国にペルーを合わせた3カ国がアンデス諸国の中で,もっともトウガラシ利用の多い国になるかと思う。
一方、私の歩いた範囲のアルゼンチン(北西部、中部、パタゴニア)のレストランでは、ほとんどトウガラシソースにお目にかかることができなかった。
 北部のサルタ市に滞在していたときは、ペルーやボリビアのトウガラシソースを思い浮かべただけでも、懐かしさのあまり唾液があふれてくる思いがした。それでどうしても自分でつくりたくなって素材を求めて市場に出かけた。だが、トウガラシを売っていても、私が求めていた種類が見つからなかった。そればかりではなく、ソースに混ぜ合わせたい香草類も見当たらなかった。
 その残念さを、市場前の道端で野菜などを商っていた山高帽をかぶっていたボリビア出身の婦人に嘆いていたら、「明日持ってきてあげるからかならずきなさい」といわれた。半信半疑で翌日ふたたび市場前まで足を向けたら、婦人は約束どおりそれらの素材を用意して待っていてくれた。
 そのあと、ときどき訪問して食事をご馳走になっていた友人宅に出かけ、台所を借りて手製のトウガラシソースをつくった。
 そこまで私を夢中にさせたのは、ペルー、それもクスコ地方でトウガラシソースを日々口にし続けていたからであった。インカ時代からの言葉であるケチュア語でトウガラシソースはウチュクタという。ウチュはトウガラシ、クタはすり潰す意味を持つ。
大きな摺り石バタンとマラン、小さな摺り石ムスカとコユタ
 私の旅の初期にあたる1970~1980年代のクスコ県では、1週間ほどの祭り期間がはじまると、村の食堂の庭先でウチュクタづくりに励む婦人の姿が見られた。
 彼女たちは、バタンという大きな石臼の上に、もっともポピュラーなトウガラシのロコトを大量に並べ、そこに香草類をかぶせてから塩をぶっかけて摺り潰していた。香草類はクラントロ(コリアンダー、セリ科)、ペレヒリ(セリ科)、雑草のワカタイ(キク科)などであった。私がサルタで探していたのがこのロコトとこれらの香草類である。
 ウチュクタに使うのはロコトを基本として、混ぜ合わせるものはすでに記した香草類、ほかにサチャトマテ(キダチトマト)、トマト、ラッカセイなどがある。だが、どれをどのような量で使おうとそれは個人の好み、変幻自在でまったくかまわなかった。
 私はクスコや郊外にあるカルカという町では、市場を歩きまわっているうちに閃いた素材を買い求め、借り部屋で小さな摺り石を使ってウチュクタづくりを楽しんでいる。創作ウチュクタとして、成功したのは雨期の高原に生えるセタ(キノコ)とアボカド、失敗したのは果実類の何種かであった。
 町のウチュクタ好きたちのそれぞれが、どんな料理にどんなウチュクタが合うかという独自のセット意識を持っていて、「あの料理にはあれを混ぜたウチュクタでなければいけない」とかいっていた。
 そうしたウチュクタにこわだわりを持つ人たちとの食談義はずいぶん盛り上がった。これは私も含めて、きっとウチュクタ好きの総意になるかと思うが、パリリャ(網)焼きにしろ、オルノ(窯)焼きにしろ、プランチャ(鉄板)焼きにしろ、こと焼きものの肉にはサチャトマテやラッカセイを使ったウチュクタに限る。
広がるウチュクタモドキ
 このようなウチュクタにかぎりなく愛着を持つペルー人が昔から多いにもかかわらず、残念なことにクスコをはじめとした町から古典的ウチュクタが消えはじめている。その現象はひとつの便利な電気製品、ミキサーが出まわってからである。
 摺り石と違って、ミキサーは金属刃で粉砕しているので、生のトウガラシや香草、野菜類の風味が壊され、辛さはあっても水っぽく、ウチュクタ本来のメリハリの効いた味わい深さが失われてしまうのだ。
 カルカの町では15年前から約10年間、私が行きつけにしていたピカンテリア(現地食の食堂)があった。
この店の経営者であるおばさんは、いつでも私の好みに応じた料理を手早くつくってくれた。玄関を入ると狭い昔風の暗い土間の右側には腰をかけられる土製の棚があり、その下から飼われている無数のクイ(モルモット)がクークーと鳴きながら顔を出してきた。左側に薪をくべるカマドがあって、そこに載せられた大鍋の中で豚肉の空揚げであるチッチャロンが揚げられていた。
 奥が食堂になっていて、幅1m、長さ3mほどのテーブルがあり、両側に長椅子が並んでいた。テーブルの上には何匹もの蠅が飛んでいた。奥に調理場があって、カマドは土製、燃料はやはり薪を使っていた。決して清潔とはいいない店だったが、どのプラト(皿、ここでは料理の意味)もすばらしかった。その味の良い料理をさらにおいしくしてくれていたのが、婦人自らバタンを使ってつくったウチュクタであった。
 やがて、この店が大通りの一画に新規開店した。建物を改築改造し、店内はテーブルも含めてしモダン化した。蠅も完全に姿を消した。調理場も薪からガス利用に変った。車で通行する人たちが立ち寄り、新しい常連客が俄然増加した。だが、私の足は遠のいてしまった。ウチュクタづくりをミキサ―に依存するようになったからである。
 クスコ市内ではこの変化がもっと早くからあらわれ、現在、バタン利用のウチュクタを残している食堂は探すのが難しい。ただし、カルカがある「インカの聖なる谷間」という地方には、少なくなりつつあるもののところどころの食堂で見かけられる。
 もっとも確実に昔ながらのウチュクタを現存させているのは山村である。「COLUMUN 海、山、谷」の「1970~1980代の村や青空市」に記したこととも関連するが、青空市に出かけた村人が、欠かさず求めてくるものがロコトや香草類である。週1回それらを入手し、朝夕の食事前にウチュクタをつくり、また翌週の日曜日、それらを求めてまた青空市に向かうのである。
写真:左から代表的トウガラシのロコト、私が手づくりしたロコトとワカタイなどとのウチュクタ、ロコトとサチャトマテとのウチュクタ。
拙著『新大陸の食物』にトウガラシソースの話が記されています。

スープ大国
csopa01020304_e.jpgソペーロたちの国々 
 本コラム欄の「トウガラシソース大国」で、サルタ市内の友人宅で自らトウガラシソースをつくった話を記した。この友人の家族は沖縄出身の両親を持つ日系2世の夫人、それに20代前半の一男一女という構成だった。
 彼ら家族は辛子類を口にする食習慣がまったくなかったのであろう、一人として私がつくったトウガラシソースを味わってくれなかった。そればかりではなく、ほかの日、私がやはり台所を借りてつくったペルー風の肉と野菜のごった煮スープにも興味を示してくれなかった。
 私一人が「おいしい、おいしい」といいながら口にしていたら、主人のみが浅い皿に盛って賞味してくれた。だが、彼は「おいしい」とはいわずに、「ムイ・インテレサンテ(大変興味深い、おもしろい)」といっただけだった。
 私がそこまでしてスープを求めていたのはトウガラシソース同様、アルゼンチンの地方レストランや食堂で、スープに出会うことがほとんどなかったからだ。アルゼンチンの牛肉は確かにおいしい。だが、それを食べながら満足していた期間は到着してから3~4日間だけだった。
 毎日、昼も夜も肉、肉料理やレタス、それにワインの食事ばかりをしているうちに、無性にスープ料理を求めたくなってきた。3カ月間過ごしたアルゼンチンをあとにして乗ったボリビア行の飛行機が、私にはスープの国への直行便に思えてきたほどであった。
 サルタで世話になった友人は、スープを喜んで口にしている私を評して「セニョールはソペーロだな」と感心していた。ソペーロとは「スープ好き人間」を意味するのだろう。私がそう呼ばれるならば、ペルーやボリビアの人たち、または汁物(ラーメン、うどん、そば、味噌汁やお吸い物など)を好む日本人などのすべてがソペーロということになる。
 前書きが長くなったが、ペルーやボリビアはスープ類が豊富である。さらに、これもまたトウガラシソースと同じく、アンデスの国の中でいちばんスープ類が変化に富んでいたのがペルー、その中でもクスコ県であった。
 代表的なのは、ボリビア名物スープのチャイロにひけをとらないクスコ風チャイロである。これは亜熱帯地方産のヒョータンやカボチャ類、高地産のジャガイモ、冷凍乾燥ジャガイモのチューニョやモラヤを潰したもの、トウモロコシを灰といっしょに茹でて皮を除いたパタスカ、それらにソラマメ、人参などを具として投入する。そこにアルパカや羊の乾燥肉、刻んだ羊の腸などが加わる。
 主菜前のスープとしては、すべの野菜が利用されているといっても過言ではない。ジャガイモ、チョクロ(生トウモロコシ)、小麦、大麦、ひき割り麦、カボチャ、ヒョータン類などと豊富である。それらに羊、牛などの骨付きのぶつぎり肉が加わったりして、それぞれ「ソパ・デ・○○」とメインとなった具がソパ名として呼ばれていた。
数々のバリエーション
 同じスープ類にカプチがある。これはキリスト教の祝祭日料理が一般化したと思われるベジタリアン・スープである。肉類は一切使わず、かわりにミルクにチーズ、卵などを用いる。代表的なのが雨期の高原に生えるキノコを具としたカプチ・デ・セタ、ほかにカプチ・デ・アバ(ソラマメ)などがある。
 ほかにトウモロコシ・チッチャ(濁り酒)に基本として、豚肉をじっくり煮こんだアドボ、カプチ風味付けのカマロン(ザリガニ)やペラ(小梨)などを煮こんだチュペなどがあるが、そもそも以前はスープの大半が「チュッペ・デ・〇〇」と呼ばれていた。こうして数えあげたらきりがないほどスープ類が変化しつつ広がっている。
 やはりスープ類として、煮出し汁ともなるカルドがある。大きな鍋で骨付き肉が長時間煮こまれているので出汁が効いていてすばらしい。これらの中でいちばん人気があるのが、「カルド・デ・カベッサ・コルデロ(仔羊の頭のカルド)」である。
 このスープを長距離バスが深夜に立ち寄った石油灯だけの食堂で食べたとき、私の皿には羊の大きな目とジャガイモだけが浮かんでいた。隣の人たちの皿はそれぞれ大きな歯茎や胃袋の切れはしのみだった。ほかに牛や羊の骨付のぶつぎり肉やアバラ肉、牛の胃などが具の主体となったときは、それぞれカルド・デ・●●と名が変化する。
 これらに加えて、汁の多い粥風料理のラワがある。これらの代表的なものに冷凍乾燥したチューニョやモラヤ、獲り立ての小粒のジャガイモ、乾燥したものや生のトウモロコシなどのラワがある。このラワに似たものに、具を煮崩したとろり味のロクロがある。このロクロにはジャガイモ、カボチャ、ひょうたん類などが使われている。
 これらのスープ類はいずれも大衆料理であることから、町や村の食堂に入ったとき、日替わりメニューの定食を注文すれば必ず主菜前に口にできる。楽しくなるのは、それらのスープのすべてに、季節や地方の特色が生かされているところである。その面では乾期よりは、野菜類がつぎつぎと実る雨期の方が内容に変化や幅が生まれていた。
写真:左からアドボ、カプチ・デ・セタ、チュペ・デ・カマロン、モラヤ・ラワ。
拙著『新大陸の食物』にもスープの話が記されています。

窯焼き大国
大地を鍋窯にするパチャマンカ COhorno01234_e.jpg
 前編の「トウガラシソース大国」、「スープ大国」に続いて、やはり「窯焼き大国」といえるのがペルー、そのいちばんがやはりクスコ県方面である。
 ペルーには昔からパチャマンカという料理がある。この料理を私が最初に口にしたのは、1970年代後半に出かけた中央部高地にある谷間の村だった。夜中、泊めてくれた警官出張所(当時のペルーでは、山村での宿泊は警官出張所と決められていた)の室内で、若い警官3人とビールを飲みながら会話をしていた。
 偶然ではあるが、10日前あたりに近くの山群で四国高松の山岳会が登山活動をしていた。その隊員の中に紅1点として20代前半の女性がいたらしい。警官たちは、「ずいぶんシンパティカ(好感度を持つ女性)だった」と、もっぱらその女性に話題を集中させていた。
 そうした会話をはさんで盛り上がっていた9時過ぎ、外で車が停車した音が聞こえたと思っていたら、一人の老人が「やあ、セニョーレス」と室内にあらわれた。
 老人は私に気づくなり、「ところでセニョールはパチャマンカという料理を知っているかね」と尋ねた。「まったく知らない」と答えると、彼は「パチャマンカを知らなければ、ペルーを知ったことにはならない」といった。
 それから「明日、自宅でパチャマンカ会を催すことになっている。早朝にトラックを差し向けるからぜひきてくれ」といった。同時に警官たちも誘っていた。大きな農園の持ち主だった老人は、そのあと、「それじゃ、明日待っているから」といって姿を消した。
 それから私たちは夜更けまで飲み続けた。寝る前に警官たちは、「ほんとうにくるかどうかはわからない」といっていたが、翌朝、6,7時に老人が差し向けた迎えのトラックが到着した。まだ酔いが抜けきっていなかった私たちは、それから1時間ほどしてから出発した。農園主の家はすぐ近くだろうと勝手に思いこんでいたが、実際は悪路を2時間ほど走ったのちに到着したほど遠かった。ガソリン代だけでもきっと大変な出費だったに違いない。
 すでに、緑に囲まれた庭に備えられた大きなテーブルを、招待された何人かの村の男女が囲んでいた。しばらくしてから、老人の指示によって農園で働いていると思われた男2人がパチャマンカの準備をはじめた。
 一人は庭の中で丸石何個かの上で焚火を燃やしはじめ、もう1人はシャベルで芝草の根が張っている土を掘りはじめた。それ以後の手順はほぼつぎのように進められていた。掘った穴の底に焼き石を並べ、その上にバナナの葉っぱで包んだ豚のぶつ切り肉や皮つきジャガイモを置き、その上にまた焼き石を載せる。それから土を被せていた。
 一時間以上が過ぎてから、老人が「どれどれ」といいながら出来上がりを確認しはじめた。招待客全員が食い入るようにして見つめている中で、土や焼き石が取り除かれ、焦げたバナナの葉っぱの包みが開かれた。
 中からあふれる湯気とともに豚肉やジャガイモが顔をのぞかせた。老人は手でちぎった肉片を口にして「ペルフェクト(完璧)だ」とひとこといった。まわりを囲み、固唾を飲んで見守っていた招待客たちが、その言葉を耳にしていっせいに安堵の笑顔を見せていた。
 使う調味料は岩塩のみ。焼き石を載せた段階から葉っぱがジューと音を立てて焼けていたが、もともとバナナの葉っぱは耐熱性がある上、何枚も重ねていたので中身までは焼け焦げていなかった。葉っぱの包みの底には豚の肉汁がたっぷりとたまっていた。この料理の味わうことは、石や土を被せた段階から香りを嗅ぐことからはじまっているといっても良かった。
 土の中から湧いてくる湯煙とともに放たれる香ばしい匂いが胃袋を刺激する。しだいに増してくる空腹感を抑えながら、「サルー(乾杯)」とお互いにコップを掲げて飲み合うビールがおいしかった。
 ケチュア語でパチャマンカのパチャは大地、マンカは窯とか鍋の意味を持つことから、パチャマンカは大地を鍋窯に見立てた「蒸し焼き」料理になる。この料理は主にセルロ・デ・パスコや隣のフニン県方面を中心としたペルー中央部高地が有名である。(このパチャマンカの準備として石を焼く場合、石が破裂することがしばしばあるので、細心の注意が必要である)
素朴な土窯料理
 一方、各種料理を豊富に持つクスコ県方面に昔から伝わる伝統料理がワテアである。ワテアとは、土くれを窯替わりに利用した「乾燥焼き」になる。これはおもにジャガイモの収穫期に行われる。
 多くの村人はその季節になると、昼が近づくと畑の隅に草の根が張った土くれを見事なドーム型に積み上げる。その中で近くから集めてきた枯れた草木を焼いて、窯と化した土くれを焼き上げる。それから自分たちが掘り起こしたジャガイモを投入し、やはり土くれで密閉する。1時間ほどしてから、中からこんがりと焼けたジャガイモを取り出す。この収穫期間、彼ら村人の昼飯は毎日がこのワテアでつくった焼きジャガイモである。
 同じ季節、クスコ市内の人たちも郊外に向かって、収穫の済んだ畑の中でこのワテアを行う。友人家族に誘われて私も同行したが、あたかも自分の畑であるかのようにして他人の畑に車を乗り入れていた。1990年代はまだのんびりとした時代で、この季節、ワテアを行うことは大目に見られ、ほかの家族もやはり同じ畑に平気で入りこんできてワテアをはじめていた。
 クスコの人たちが行うワテアは、ジャガイモといっしょに仔羊のアバラ肉を焼くのが定番であった。なぜコルデロのアバラ肉と決まっているのかについて、友人は「薄いので焼き上がりが無難だから」と説明していた。
 「太陽の祭り」が行わられる6月24日のサクサイワマンの遺跡近くの野原では、無数の家族が思い思いにワテアを楽しんでいた。あちこちで立ち昇るその煙が祭典の行われる会場付近までたなびいていた。だが2000年代中ごろから、このクスコ市民の恒例として慣れ親しんでいたサクサイワマンのワテアをゴミ処理などの環境上問題から市当局が禁止にしてしまった(現在は、遺跡からはるか離れた地点で細々と続けられている)。
 素朴な窯焼きとも呼べるこのワテアが昔から伝わってきたせいか、クスコ県方面は窯焼き料理の伝統が根強く残されている。町や村での祭り、または誕生日や結婚式などの祝いごとに、1家族が親族や友人たちを呼んでご馳走する料理のほとんどが窯焼きである。
 それらの素材もっともに選ばれているのが、仔羊とジャガイモや細長のパスタ(パスタの窯焼きもクスコ地方の人の好物である)などである。
 こうした窯焼き料理が衰えないのは、町に窯焼き屋がいくつもあるからである。それらの窯焼き屋の中にはふだんはパンを焼いているところが多いが、クスコ市内では窯焼きを専門として営業している店もある。
 窯焼き屋に依頼するときは、依頼主が練った赤や黄色トウガラシなどの粉末を香辛料として塗りつけた仔羊、ジャガイモ、または茹でたパスタ類などを持参する。すると1、2時間で確実、無難に焼き上げてくれるのである。
 こうして家族が窯焼き料理を食べるのは、祭事や祝いごとの日だけではなかった。市内や町のピカンテリア(現地料理店)の中には、オルノ・アル・○○という窯焼き料理がメニューとして揃えているところもある。
 それらの店の窯焼き料理で人気があるのは何といっても仔羊、山羊、アヒル、モルモットなどである。ほかに年に何度かの祝祭日(それぞれの祝祭日に合わせた料理がほぼ決まっている)料理として名高いのがレチョン(子豚)になる。
犬小屋利用の窯焼き
 窯焼き屋がない地方の町や村では、自分の家近くに窯を持つ家族が多かった。村人の中には、窯がなくても芝草の土ブロックを積み上げるなどの工夫をして即製の窯に仕立て上げていた。
 私が古くからのつき合ってきた兄弟が住む村を訪ねたとき、彼らは私にコルデロのオルノ料理を食べさせたいといって思案したあと、のどかに昼寝している犬を犬小屋から追い出した。犬小屋といっても粘土で固めてしっかりと築いたもので、窯焼き料理が可能な高さと広さを持っていた。
 その中で薪を充分燃やし続けたあと、トタンの上に婦人たちがバタンで潰した香辛料をたっぷり塗りつけたコルデロを載せて内部に押しこみ、あとから重ねたアドベを粘土で塞いで入口を密閉した。ほぼ1時間でこんがりとやけた丸焼きが完成した。
 そのあと、友人兄弟はすぐに犬小屋の入口をふたたび閉じていた。そうするのは、かつて香ばしい匂いに呼びこまれた犬が中に飛びこんで焼け焦げたことがあったかららしい。
 このように村から町、クスコ市内に至るまで窯利用の食文化がしっかりとクスコ県方面に残っているのである。(09・2014)
写真:左から町の窯焼きに運ばれたジャガイモ、祝祭日に売られていたレチョン、窯利用のたモルモットの姿焼き、アヒルの窯焼き。
拙著『新大陸の食物』にワテヤや窯焼きの話が記されています

アマゾンで「焼く、蒸す、煮る」
熱帯のパチャマンカCCS01234_e.jpg
 本格的にアマゾンに興味を持ちはじめて出かけた1983年。ウルバンバ川の下流域で、同行者である30代後半のトトン(私の著書『驚きのアマゾン』第1章に登場)が、投網で20~30センチ大の魚を30匹以上獲たことがあった。
 トトンが内臓を取り出してくれていたそれらの魚の量はあまりも多かった。どう料理しようかと思案しているうちに、私が思いついたのが、本コラム欄「窯焼き大国」で記したアンデス料理のパチャマンカであった。
 この方式でまとめて料理すれば、私とトトンだけではなく、宿として空棟を与えてくれていた家族(4人)にも分け与えられると考えた。
 パチャマンカについて、まったくイメージすることができなかったトトンは困惑し、「俺は何も知らんよ、まったく知らんからね」といっていた。
 その彼に具体的に説明するのが難しかった私は、ただ「穴を掘ってくれ」、「薪を燃やしてくれ」と命令していた。その一方、自分は石を集めたり、民家の主人に断ってバナナの葉っぱを何枚も採ってきたりした。
 暑い炎天下、焚火による石焼きを任されたトトンは、全身汗まみれになって薪をくべながら、「一体、セニョールは魚をどうするつもりなんだろう、ほんとうに料理になるのだろうか」と不安を口にしていた。
 手順は「窯焼き大国」で目にした方法に倣っていた。土を被せたのち、1時間ほど待機してから土を取り除き、バナナの包みを開けると蒸し上がった魚が蒸されてぐつぐつと音を立てていた。
 トトンは何かしら魔法の箱を見つめるような顔をしながら見つめ、「これがパチャマンカか」と感心していた。その驚きはかたわらで観察していた民家の主人も同じであった。
 このパチャマンカ方式で料理した魚はカランバ味ともいえるおいしさだった。カランバはペルー人が、失敗や驚き、予想外の事態に遭遇したときに使う言葉である。ここでのカランバ味は言葉を失ってしまうほどのおいしさの意味とする。
 魚だけではなく、包みの底にたっぷりと溜まっていた煮汁がまたカランバ味だった。普段は口数の多いトトンではあったが、このときは食べ終えるまでは「おいしい、おいしい」という以外の言葉を発っしなかった。
 咄嗟の思いつきで試した魚のパチャマンカは大成功であった。だが、それ以降30年以上ほど続けてきたアマゾン生活で、このときがはじめてで最後の料理となっている。
 旅を重ねるうちに先住民を含めた森や川に熟知したベテラン同行者から、もっと簡単でかつ素朴味わいを生む料理方法をいろいろと教わったからである。
 そればかりではなく、うだるように暑さの中で時間をかけて石を焼き、それから完成まで待たねばならないパチャマンカ方式はアマゾンに似合わなかった。また、たとえパチャマンカ料理を求めても、ウルバンバ川のように玉石がころがっている川も少なかった。
 普段のキャンプ生活では手っ取り早さや無難さから、ほぼ毎日、魚は空揚げを定番としていた。だが、どれもこれもおいしいアマゾンの魚の中で、さらに格別ともいえる魚が釣れたときは、それらに合わせた料理方法を楽しんでいる。
 いわゆる魚らしい形をし、鯛にも負けない味を持つサバロ(30~40センチ大)は焼き魚が似合った。焼くためのバルバコア(焼き棚)を高くして、30分以上かけてとろ火でじっくりと焼き上げると、肉身がしっかりとしまった最高級の焼き魚となる。
 ほかに、パチャマンカに似た葉っぱで包む蒸し焼き料理にパタラシカがあった。森の中ではバナナの葉など入手できない。だが、ビハオという楕円形をした広い葉っぱがたくさん茂っている。この葉っぱはバナナの葉以上に耐熱性を持つほか、魚の味を壊すこともなかった。
 味のいいスンガロ(巨大ナマズ)・ネグロやスンガロ・ドンセーリャなどが釣れたときは、そのぶつ切りを、ビハオの葉を3枚ほど重ねて包みこみ、焚火のかたわらか、あるいは焚火の上に設けたバルバコアの上に載せる。それだけでパチャマンカ同様の蒸し焼きが完成する。
 同じ蒸し焼き料理として、パカという孟宗竹より細い竹の筒を利用するのがパカモトである。これには竹筒の大きさからして、小型ナマズ類で味のいいモタ(約30センチ大)が似合った。ぶつ切りにしてそのまま中に押しこみ、ビハオの葉っぱを詰めこんで栓をし、焚火のそばに立てかけて置くだけで立派な蒸し焼きができ上がった。
 ほかに、いつも絶句させられていた味は、先に記した巨大なナマズのぶつ切り、または、鯉型のボカ・チコという魚(40センチ以上が最高)、ヨロイナマズなどを煮たスープ料理のチルカノである。
 ここまで記したパタラシカ、パカモト、チルカノなどのすべてがカランバ味になるが、いずれも調味料として使うのは塩のみである。ただし、焼き魚以外のときは香辛料としてサチャ・クラントロ(野生コリアンダー)の葉をこまかく刻んで使う。パタラシカやパカモトのときには、ときどき刻んだニンニクを少量混ぜていた。
 どちらにしてもそれら以外はいっさい使わない。素朴な方法によって生かされた、それぞれの魚のおいしさをぶち壊したくないからである。
 アマゾンの魚料理は、これら「焼く、蒸す、煮る」という基本から成り立っているのである。(09・2014)
写真:タリマでじっくり焼くサバロ、モタのチルカノ、魚をビハオの葉で包んだパタラシカ料理、パカという竹の筒を利用したパカトモ料理。
これらのアマゾン料理については、拙著『アマゾン源流「食」の冒険』に詳しく紹介しています。