COLUMN 高地高原谷間の世界

はじめて向かったボリビア

ラ・パス市到着と一人の日本人
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 1973年。私の初回の旅は、最初から自然や村人との触れ合いを求めてボリビアを目指した。 乾期の6月、リマ市からラ・パス市へと向かう飛行機に乗った。反射する鏡のように湖面をきらつかせていたティティカカ湖上空を飛んだあと、全風景が茶黄色に染まっていた高原アルティプラーノが窓から望めた。
 そのあと、まだ未舗装だったラ・パス国際飛行場に着陸する。飛行場内で何人かの山高帽と幅広いスカート姿の婦人たちを目にしたとき、ラ・パスに到着した実感がこみ上げてきた。
 アンデスの大地に降り立ったのである。飛行場内で高揚しまくっていた私の気分を覚ましてくれたのが、警官らしき男の「ひとつ残っている荷物はセニョールものじゃないか」というひと言であった。すっかり、自分のザックの受け取りを忘れていたのだ。案内された一室に、私の赤いザックがころがっていた。
 いっしょに降りたほかの乗客はすでに誰もいなかった。一台だけ残っていてくれたタクシーの運転手は、運転席に横になりながら新聞を読んでいた。年配者だった彼の車に乗りこんで市内へと向かう。スペイン語は日本で幾つかの単語を覚えただけ、会話などまったくできなかった。
 タクシ―が走り出してからすぐに、摺鉢型に広がるラ・パス市の全景、その前方に白いイリマニ山が見渡せた。空は隅から隅まで真っ青だった。その風景を目にしながら、私は「リンド、ラ・パス(きれいなラ・パス)」と何度も叫んでいた。曲がりくねった道路を下り、やがて町の中に入りこんだころから、運転手が後部座席で興奮しまくっている私に、「セニョールはどこにいくのか」と頻繁に尋ねていた。
 それに応えて、「ラ・パス、ラ・パス」と同じ応答を繰り返していた私は、「ラ・パスに決まっているじゃないか、なぜ同じ質問ばかりをしているのだろう」と不思議に思っていた。
 しばらくしてから、急に運転手は車を通りの一画に止めた。彼が「ここに、日本人、アミーゴ(友達)、いるはずだ」などといっているのが聞き取れた。そう理解したとき、運転手がそれまで「どこにいく」と訊いていた意味をはじめて理解した。
 運転手は、何通りの何番、またはホテル名などを知りたがっていたのである。にもかかわらず、私が「ラ・パス、ラ・パス」としか応えていなかったので、「これは手に負えない日本人だ」と考え、一人の日本人を思い浮かべてくれたのである。
 運転手がおろしてくれたところは一軒のレストラン。経営者が50代後半だった清成永義さん(大分県生まれ。故人)という日本人だった。清成さんに、運転手との顛末を話すと、「以前、タイヤ販売をしていたときの知り合いではないかな」といっていた。
 以後、ラ・パス滞在中は清成さんから自宅に呼んでいただき、奥さんの手づくり現地食や日本食をどれほどご馳走になったか計りしれない。日本人会幹部だった清成さんの紹介で、ほかの日本人会の長老たちと知り合いになることができた。現在は、清成さんをはじめ、すべての方々が他界されているが、どなたからも親切にしていただいた。
 清成さんは若いころにボリビアの山野を歩きまわっていたので、各地方に精通していた。それらについて、おいしいお酒をいっしょに飲みながら教えてもらったことは山のように積み重なる。いつも1カ月以上の奥地の旅を終えてから、真っ先に駆けつけていたのが清成さん宅であった。山の中や村で体験した数々を、話すというよりは報告するのが楽しみでしかたがなかったからである。
一人の紹介者もいなかったが、偶然乗ったタクシーの運転手が、以後、限りなくお世話になった清成さんという日本人をめぐり合わせてくれたのである。
 2000年代はじめに帰国されたときは、埼玉県内に嫁いでいる娘さんの家で楽しい会話ができた。娘さんの主人と私は1973年から知り合いであった。日系企業が進出していなかった当時、電話回線の改良事業でボリビアにこられていたからである。
 その時代の話に花を咲かせた一夜を過ごしたのち帰国されたのち、清成さんの訃報を娘さんから知らされた。それ以後も何度かラ・パスに出かけている私が、いつも真っ先に向かうのは清成さんのお墓である。(09・2014)
トラック便という青空バス
 私がボリビア、ラ・パス北方の山岳地や谷間を歩きまわっていたのは、1970年代から80年代後半にかけてである。その時代は、いつも週1便の貨客両用のトラック便の荷台を利用していた。
 最初のころ、ラ・パスを発つ前の大仕事は、トラック便の出発地点の確認であった。出かけたい北方高地へと向かうトラックが、市内上部から出発することまではわかっても、具体的にどの通りやどの区画からがさっぱりわからなかった。
 困り果てていた私に同情した清成さんが、「忙しい身じゃないから、いっしょに探しに行きましょう、気にせんでいいから」と同行してくれた。だが、ボリビア人は知らないことでも親切丁寧に教えてくれたので苦労した。尋ねた多くの人から、「それは上の通りだ」「下の通りだ」と手を使って教えられ、そのつど海抜3800mの高度がある町の坂道を、息を切らしながら幾度登ったり下ったりしたかわからない。それでも確かな区画を見つけることはできなかった。
 そのため、とりあえず出発場が明確だったティティカカ湖北方の村に向かうトラック便に乗って出発した。そこから奥地行きのトラック便を拾おうと思ったのである。
 出発日は土曜日の深夜2時ごろ。場所は、市内上部の大通りであった。金曜日の11時ごろにその場に向かう。街燈も少なかった時代、薄暗い通りに大型トラックが待機していた。その荷台に高さ2m以上の板枠が張られ、後方に架けられた梯子を登って乗客が荷物を運び上げていた。
 内部で人がひしめきあっていることは理解できても、暗くてどれが人影でどれが荷物なのか定かでなかった。勇気をふるってザックをかついて荷台内を前に進むと、「痛い、足を踏むな」と怒鳴られる。ついよろめいて何かにつかまれば、「痛い、頭をおさえるな」と怒られた。それでもめげずにわずかの空間にザックをおろし、その上に腰をかける。しだいに目が慣れはじめてから、まわりが村人の乗客たちで満杯になっていることを知る。
 「やれやれ」と一息をついているころ、大きな布包みらしき荷物が外からポーンと投げこまれる。すると、「注意しろ、頭にぶつかった、ヒー痛い、首がおかしくなった」などという婦人の叫び声が上がっていた。
 そのような騒ぎの中、新たに村人がどでかい荷物をかつぎこんでくる。そのために自分の席を確保していた乗客が立ち上がり、その荷物の上でふたたび「押すな、踏むな、蹴飛ばすな」とののしり合って席の陣取りがはじまっていた。
 乗客たちがぎっしりと中身が詰まった魚の缶詰状態になりつつもなんとか納まり合う。足も満足にのばすこともできなかった。誰もが尻や背中を密着させ、ヘトヘトに疲れきってしまった深夜2時ごろ、ようやくトラックが動き出した。
 トラックは、村人が愛称でトヨテートと呼んでいたトヨタ製であった。板枠から無数の人の頭がはみ出し、板枠両側には、つぶしてはいけない荷物が籠に入れられて紐で結ばれてぶら下げられていた。
 それらを載せたトラックが悲鳴のようなうなり声を発しながら、曲がりくねる坂道を登りはじめた。この時代、 荷物満載のトラックがエル・アルト(高地ラ・パス)にたどり着くまでは2時間以上かかった。
 高原に出てからは、トラックは息を吹き返したように快速快音で走りはじめた。すると風が顔面を刺すようにして勢いよくぶつかってきた。寒くてたまらない。乗客たちは「オー、寒い」と口々にいいながら、各々がポンチョ類をすっぽりと被っていた。
 私は羽毛服を着こんでいたが、風が体に穴を開けて吹き抜けていくほどの寒さは変わらなかった。席を確保し合っていたときは、「なんて図々しいヤツだ」とつぶやいていた隣の男の密着した体が有難く思えてしかたがなかった。
 やがて遠方に連なる山脈(レアル山群)がしだいに赤く染まり出したかと思うと、峰々が朝日を浴びて輝きはじめる。そのあと、大地に斜光が投げられ、しだいに平坦な草原が暁色で染まりはじめる。私は刻々と変化する陽光を目にしながら、太陽が頭上に到来するのを「今か、今か」とひたすら待ちわびていた。
 太陽に照らされた空気のぬくもりが伝わってきはじめたころ、誰もが被っていたポンチョ類を払いのけて顔をのぞかせた。
 そのとき、彼らは乗客の中に、一人の東洋人らしき顔をした私を見つけて意外そうな顔して見つめていた。すぐ目の前で2,3人の老人が私を凝視しながら、アイマラ語らしい言葉でブツブツとささやき合っている。
 その表情を目にした私は思わず笑ってしまった。彼らはポンチョ類をかぶっていなかったため、おしろいを塗ったような能面のような顔をしていたからである。その中で笑う彼らの目と睫毛が、または赤貝を開閉しているかのような口元が異様で不気味に見えた。
 私の顔も同じだったのだろう。私が笑えば笑うほど、彼らも私の顔を見て笑い崩れていた。高原の風は寒さだけを運んでいたわけではなかった。道路から微粒子の土ぼこりが舞い上がって荷台を包みこんでいた。
 お互いの顔を見て大笑いし合ったことから親しみが生まれたのか、一人の老人が意を決したかのように、スペイン語で「セニョールはどこからきた」と問いかけてきた。私が「ハポン」と答えると、彼は「アーン」と口を開けたまま黙ってしまった。それから隣の老人と「ハポン」といいながらしばらくぼそぼそと会話をはじめた。
 そのあと、「ところでハポンはどこにあるんだ、トラックで何時間だ」と尋ねてきた。それに応じて、スペイン語が満足に話せなかった私は、地球の裏側といっているつもりで「この下だ」といってから、「すべてマル(海)、すべてアビオン(飛行機)」とつけ加えた。
 すると、ますます意味がつかめなくなったらしく、今度は3人が、そろって「アーン」といいながらしばらく口を開けたまま閉じようとしなかった。
 こうして北上したティティカカ湖沿いで見つけた村がエスコマであった。ほとんど、ラ・パス県北方に山岳高地や谷間の村に向かうトラック便が、このエスコマを経由していた。この村にあった一軒の食堂兼安宿、そこに一週間滞在し、奥地に出かけて戻ってきては、ふたたび1週間の滞在。そういう生活を送り返していた。
 週1便のトラックを利用することは日程の組み方もまた週単位にせざるを得なかった。以後、ラ・パスを発つトラック便を何10回となく利用した。最初のころ難しかった出発場探しも回数が増すにしたがって案外容易になった。
 当時はまだラ・パスに向かってきた村人が、野山の生活着で町の上部あたりを歩いていた。その服装を目印にすることができたからである。また、悪路ばかりであった道路もしだいに改善されつつあった。
 最初の回、ラ・パスに戻るまでトラック便で24時間かかった村へ10年後に出かけたら8、9時間に短縮していた。79年代のペルーのプノ~ラ・パス間は、国境の村にあった一軒の安宿で一泊し、2日間かかっていた。
 そのころのボリビア側の道路は畑に畝のよな凸凹道で、車で揺られ続けたあとに食事をするとき、上下の歯がうまく噛み合わなかったほどである。そのプーノ~ラ・パス間は現在3時間ほどに短縮されている。
 ラ・パスの町そのものも変化し、80年代に入ったときにエル・アルトと通じる高速道路が完成した。同時に飛行場や空軍基地しかなかったエル・アルトが、現在は100万を超える人たちが住む大きな町と化している。(09・2014)
写真:左は1973年ごろのティワナク村、まだトタン屋根は一軒も見当たらなかった。真ん中はアルティプラーノの丘陵から見えたイリマニ山。ほかは谷間地方で見かけたこどもたち。
清成さんとの交流、最初のころのボリビアの旅については、拙著『大地と人を撮る』で、またトラック便の旅や現地で食べた料理については『アンデス 食の旅』でそれぞれ触れています。

1970~80年代の青空市場

市場の商品シンボルでもあった帽子
 1970年代は、ピサクにしても、やはり観光客の姿が見られたチンチェーロにしても、日曜市は村人が生活用の食糧を得るための青空市場であった。売買もしていたが、大半が自分の家から収穫物、毛皮、毛糸などを運んできて、商人たちと砂糖や油、香草類、果物などと物々交換していた。
 ボリビアの奥地でもそうだったが、この当時の青空市で私の目を引いたのは、何といっても婦人や少女たちの個性ある古典的な服装や帽子であった。地方や村によって男たちも独自の服装であらわれていたが、女たちの方が服装面では頑固に昔からのスタイルを崩していなかった。
 こうした青空市をまわっているうちに、いつしか物々交換と帽子(服装も含めて)が結びついていることを知らされた。
 帽子やその飾りは、その地方や村のシンボルでもあった。そのシンボルがそのまま、「自分が交換のために持参してきたもの、逆に交換によって他人から入手したいもの」を需要と供給をイメージ表現していたのである。

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 例を挙げれば、高地放牧域の帽子からは 「寝床に敷く毛皮、それに毛糸、リャマやアルパカのチャルキ(干し肉)、家畜儀礼祭に必要なリャマの乾燥脂肪などを持ってきています」 その一方、ほかの帽子は「トウモロコシやトウガラシソースの素材や野菜類などを求めています」 ということを示していた。
 かわって、ジャガイモ栽培地の帽子は 「ジャガイモ、それにジャガイモの乾燥保存食チューニョやモラヤを用意しています」、「トウモロコシや野菜、トウガラシソースの素材、毛糸などが欲しいです」になる。
 トウモロコシ栽培地の帽子は、供給面では「タネに適するさまざまなトウモロコシを持ってきています、野菜類、ほかに温暖地側からのサボテン果実もあります」、需要面では「ジャガイモや乾燥ジャガイモが欲しいです、チャルキや毛糸が少々欲しいです」ということをあらわしていた。
 季節が雨期に変化すると、高地側の帽子には「セタというキノコや、ユユチャという野原の藻類を持ってきています」が追加され、トウモロコシ栽培地側にはの帽子には、「サクランボ類のカプリがあります、大根の葉っぱに似たナーボ、畑の中から雑草の香草も採ってきました」などが加わる。
 地域や地方によって、その品目に違いがあっても帽子がほぼ、このような商標シンボルにも化していた。
 似た形の帽子であっても、そのどこかに村人が目にすれば一目瞭然の違い(前に垂れている布の色や長さとか、鍔の長さなど)が施されている。また、白い円筒形帽子を被っている婦人たちは、町から日曜雑貨類や衣類を運んできている商人たちで、その帽子がそのまま彼女らが運んできた商品類をあらわしていた。
酔っ払い男と泣きまくる女
 もうひとつ、この時代の青空市で目を引いたのが、酔っ払い男と泣く女の姿であった。
 水をなでつけた髪をてからせて颯爽と早めに市場に向かってきた男が、女房と約束した買い物をせずに、そのお金を手にして売店に入ってトゥラゴ(アルコール)を飲みまくってしまう。そこに、少しでも夕食を変化させたいために油や麺類、香草、トウガラシなどと交換する収獲物を詰めた布包みを背負い、数歳の幼児の手を引っ張っりながら女房があらわれる。
 彼女は酔いつぶれた主人の姿を目にするなり、覆いかぶさるようにしてのしかかって体をたたき、「パパチャ、パパチャ(父ちゃん、父チャン)」と叫び、ヒーヒーと泣きわめく。それはとめどもなく声がかすれるまで延々と続く。その傍らで、幼い男の子が泣きだしたいの我慢しながら立ちすくんでいる。このような男女の姿をかならず日曜青空市の一角で目にした。
 女の泣くことで威力を発揮していた。ところかまわず泣きに泣いて、最後は泣きまくって勝つのである。叫んだり呻いたりする声を、湧いてくるせつなさを大波小波に出しながら泣く。この泣き責めをまともに受けた酔っ払い男はたまったものでない。
 すごすごと起き上がってふらつきながら野原方向へと姿を消すが、その後ろ姿に向かって最後の力を絞り出したヒーという声が届けられる。その泣き声にドンと押されたかのように、男がまたふらふらと大きくよろめいていた。
 このような情景と村人の文明化状況はしっかりと関連しているのだろう。近年からはほとんど目にすることがなくなった。(09・2014)
写真:上左から、昔のピサクの日曜市場、チンチェーロの女、ウルバンバやオリャンタイ・タンボ奥地の娘たち。下左からチンチェーロの日曜市で見かけた商人婦人、ティンタ地方の女、カナス郡の女たち。
*各地方で泣く女があらわれたさまざまな場面を目にした。それらについての後編は「ティティカカ湖畔のナイトシアター」にあります。
村人の服装については、拙著『大地と人を撮る』にもっと詳しく紹介しています。

地図で見つけたウユニ塩湖
肝炎と地図
 現在、日本人旅行者にマチュピチュに続いて人気上昇中なのがボリビアのウユニ塩湖らしい。1976年、私がはじめてそのウユニ塩湖へと向かった旅について記したい。
 首都ラ・パス市内。雨期さ中の一月、前年暮れからだるかった体が、いつしか歩行も困難な状態になってしまった。安宿のベッドでぐったり眠こんだあと、洗面所で自分の顔を鏡で見て「やられた」とつぶやきながら愕然とした。眼は黄色く、尿は赤っぽく変化していたからである。
 あわてて知人から紹介された老医師に家に駆けつけた。BBU012_e.jpg
 この老医師は、私が「肝炎にやられた、このオホ(目を)を見てくれ」といって、黄色い目をむき出して見せ、さらに黄みがかった爪部分を見せた。だが、その医師は、「胃が疲れているだけだ、心配しなくていい」といって、薬局で買い求める胃薬名を書いてくれた。
 「肝炎にやられた」と自らいっている私が聞きたかったのは、「その通り、肝炎だね」というひと言であった。とにかく体がかったるく、ひと言を吐くことでさえも辛かった。情けない気持ちで、それから町の中心部にあるクリニックに向かった。そこの医師は血液検査をする前から、私を見るなり「肝炎だね」といってくれた。そういわれて、まともな医師に出合えたという安心感が湧いてきた。
 以来、昼前に毎日お尻にブドウ糖を打ち、それから日本人会館の食堂のおばさんが油を少な目にしてくれた昼と夕食を食べ、あとは安宿で横になっている生活がはじまった。注射は、注射を打つことが趣味ともいっていた、清成さん(はじめて向かったボリビア:参照)の友人でもあった塔野さんという老日本人が引き受けてくれた。
 大きな金物屋を経営されていた塔野さんは、私がお伺いする時刻、いつも2階の廊下でガラス製注射器を熱湯で消毒しながら、ニコニコとした笑顔で待っていてくれた。
 ベッドで横になったきりで過ごす日々の私の唯一の楽しみは、日本人会館で借りた本を読むことと、回復後に出かけたい地域を地図上で見つけることであった。当時のボリビアの地図はどれもこれも精緻ではなかった。小さい地図や大きな地図があっても、値段と色の塗り方が違うだけ、内容に差がなかった。それでも夢を膨らますことができた。
 そうして目にしていた地図上に、「SALAR DE UYUNI」と記されて線で囲われた大きな一帯が目に留まった。湖ではなく、塩の原と判断した私はもっと詳しい情報を得たいと思った。だが、当時のラ・パス市内で、このサラール・デ・ウユニについて詳しい人を見つけることはできなかった。
 それでも、その塩の原野に想像もできない世界が広がっているに違いない、そう思うと日々期待が大きく膨らんできた。季節はまだ雨期、連日大雨が降っていた。逸る気持ちを抑えて療養に専念していた。だが、三月に入ると窓から青空や湧き上がる白い雲を目にするようになってきた。しだいに居ても立ってもいられない気分になって、医師の「まだ一カ月早い」という忠告を無視してポトシ(県都)行きのバスに乗りこんだ。
深夜の脱線事故
 ポトシからは鉄道利用であった。前日に運行の確認に駅に向かうと、翌日の深夜に発車するという年代物機関車が、蒸気を噴き上げて駅構内に入ってきた。「このような機関車は日本にもあるか」と駅長が大声で尋ねるので、「あるある、きっと博物館に」と答えたら、駅長は立派な鼻ヒゲを歪ませながら笑い崩れていた。
 翌日の夜11時駅に向かう。欲張った車両編成で、貨物車は8両、客車はわずか2両。駅も車内も真っ暗であった。
 私は、自分の席隣に面したの窓ガラス近くにザックからローソクを取り出して灯した。通路は布袋を背負った村人たちがあわただしくいったりきたりして、まるで鶏小屋のようなにぎやかさだった。騒然さはそのまま続いていたが、私が自分の席を確保した安心感からローソクをフーと吹き消した。すると、多くの村人たちから「おー真っ暗だ、セニョールは親切じゃない、まだ消さないでくれ」と懇願されたのでふたたびローソクを灯す。
 車両内の喧騒が静まった1時ごろ、機関車が動き出した。ガタガタガッタンという音も揺れも激しかったが勢いが驚くほど凄まじかった。だが、その振動音を心地よく耳にしながら寝入ったばかりの2時ごろ、突然ガッタンと大きな衝撃音とともに列車が停止した。BBu03,0405_e.jpg
 座席から吹っ飛びそうな衝撃だった。同時にほかの車両方向から泣き声や叫び声が響いてき
 懐中電灯を手にして外に出ると脱線事故だったことがわかった。このとき、懐中電灯を持っていたのは私一人、多くの人ととともに限られた明りの中で目にしたのは、車両の脱線だった。大昔に敷いたカーブだらけの鉄道。そこを年代物機関車が速度を出し過ぎていたため、真ん中部分に連結していたガソリンタンク車3両ほどが谷底へと転落したのである。
 もし、そのタンク車両からガソリンが漏れて点火していたら、大きな爆発事故が発生していたかもしれない。幸いにして客車内の乗客のケガ人は少くなかった。貨物車両に潜りこんでいた何人かが、停止の衝撃で壁や荷物に頭部をぶつけたといって騒いでいた。その日は、そのまま事故現場で一夜を過ごす。午前中、ポトシから別の機関車が出迎えにきてくれてまたポトシに戻る。深夜、あらためて同じ列車がウユニを目指す。
ウユニの町から白い原野へ
 砂漠状原野の中にポツンとあった当時のウユニの町は小さく閑散としていた。イメージからすれば西部劇映画で見た昔のカンサス・シティかツーソンという雰囲気で、どこから馬に乗ったカーボーイや保安官があらわれてもおかしくなかった。
 日曜日の朝、塩湖方面へと向う週一便のトラック発着場へと向かった。ザックの中には自炊道具一式を詰めこんでいた。コンロ用のガソリン容器は日本から持参した1本では不足すると思ったので、余分にガラス瓶1本に詰め、それをカメラバッグに入れて運んだ。
 塩湖がどのような世界なのか、また、具体的にどこに出かけたらいいのかさっぱりわからなかった私に、すでに板枠で囲われた荷台に乗りこんでいた村人たちの男女がウユニ塩湖を説明してくれた。
 誰もが「とにかく白くて広い、ボニート(きれい、かっこいい)の世界だ、チリ側の村に向かうからいっしょに行こう」と誘ってくれた。どこに向かうトラック便か検討もつかなかったが、ためらわずに荷台に乗りこんだ。当時はまったくといいほど情報が少なかった時代、どこでもいつでも村人の言葉を信じて行動することがアンデスを知ることだ決めてからである。
 出発してから一時間ほど経過したころ、コルチャニという採塩場を通り過ぎた。このあたりから、真っ白い別世界のはじまりとなった。やがて勧めてくれた乗客たちの言葉通り、トラックは果てしなく広がる白い原野上を走っていた。まるで氷雪か氷原の世界、眩しくてたまらない。その広大な大地のすべてが塩でできていることがとても信じられなかった。地図から想像していた以上の驚きの大自然風景が広がっていたのだ。
 私は塩と日焼けで真っ黒の顔をした乗客たちに感謝していた、彼らの誘いの言葉があったからこそ、おそらく日本人としてはじめて塩湖中央部を走っているトラック上にいることができていると思ったからである。それにしてもトラックは快速である。このとき、このウユニ塩湖上がボリビアの中で唯一最高の道路ではないかとも考えた。
 私は荷台内に立ちながら歓喜の声を何度発していたかわからない。数時間後にトラック便の終点であるチリ寄りにあった大きな村に到着する。宿は寄宿生が寝泊りしていた学校内の広い一室であった。案内してくれたのは、トラック便の乗客だったその学校の生徒だった。
 ベッド数は100個ほど、そのうちの空いていたひとつのベッドを私に与えてくれた。食事も彼らが食べている大食堂の定食を無料で食べさせてもらった。
 翌週、週一便の同じトラック便に乗りこんだ私は塩湖中央部にあった寒村で下車し、少学校の土間に簡易テントを張らせてもらい、自炊生活を続けながら一週間を過ごす。不安だった肝炎はほぼ治癒していたのだろう。
 体の底から力が湧きつつあるのが実感できた。塩湖内の塩を手ですくってなめてみた。ミネラルの多いせいか甘かった。塩が甘いと感じられたのが完全回復の兆しだと確信した。
億年万年の風景
 この回、目にした塩湖の大風景は衝撃的であった。異次元の時間が流れていると思った。以後、呼び戻されるようにして2回向う。2回目の滞在先も初回の帰路に立ち寄った村の小学校の一室であった。3回目はラ・パスからジープを利用して別のルートから訪れた。こうして通い続けたウユニ塩湖ではあるが、再訪前の私の気持ちは喜びとうろたえが半々であった。
 喜びは期待でもあったが、うろたえはウユニ塩湖が持つ風景への怖れであった。朝から晩まで、目の前に広がるのは白い塩と青い空の世界のみ。そのあまりにも平穏で変化のない風景が持つ底なしの静けさが不気味でもあった。
 真昼は一人で沿岸の野山を歩きまわり、単調な世界が突然変化を見せる夕方の時間帯のみ塩湖内に入っていた。夕日が遠方の山のかなたに沈んだあと、空や水たまりの湖面が色鮮やかな残照に染まる。
 それは瞬間の間であった。自然界が見せる永遠や深遠の視界、とてもこの世のものとは信じられなかった。どこまでがこの世で、どこまでが彼岸の世界かわからなかった。
 フランスの詩人ランボーは、「永遠」という詩の中で、海に沈む夕日に、夕日が沈む海に、永遠を見つけた、というような内容を詠んでいる。
このウユニ塩湖の永遠は、空と湖水が残照の色で溶け合った一瞬にあるのではないかと思う。私はたびたび言葉を失い、底なしの絶望感に包まれていた。
 人がうろたえようが嘆こうが、絶叫しようが、宇宙につながる億年万年の時間で呼吸している大自然とは、もともと虚空であり無である。それを言葉でなく、夕刻の空や大地の色彩が皮膚とフィルムにしみこむようにして教えてくれたのである。
 海抜約3650mの高原に1万平方キロ以上の面積を持つウユニ塩湖が誕生した古代に想いをはせてみたい。ボリビアの高原地帯からは約4億年前の三葉虫の化石が多く出土している。昔、この一帯は海の底だったのである。それが2千万年前以後ともいわれている時代にアンデス山脈が本格的に隆起した。
 このとき、ウユニ塩湖一帯を含めて幾つかの海水湖が誕生したという。その時代から、気の遠くなるような大自然の営みが続けられ、水分が蒸発して現在の塩湖が生まれたことになる。
 最初の旅で向かったチリ寄りの村近くには、墳墓と見間違えた円形石囲いが無数に並んでいた。出入り口がないことから住居用でもなかった。おそらく、大昔の人たちがどこかに運んでいた塩の保存場ではなかっただろうか。
 また、滞在していた小学校があった村近くには、内部が石積みで仕切られ、人が住んでいた形跡を残す岩洞が点在していた。ひとつの岩室には、女のミイラが眠っていた。そのあたりにコップ型の土器やスゲで編んだ器などがころがっていた。(09・2014)
写真:上は塩の地平線をいくバスと塩湖内から目にした沿岸の村。下左上は年代物機関車、左下は沿岸に見られる洞窟住居跡、右はトラック荷台内の乗客
*このウユニ塩湖は1970年代後半から数々の雑誌に発表したが、80年代中ごろに発表した『ニュートン』の特集「アンデスを行く」を目にしたTV制作会社から私に連絡があり故緒方拳さんを出演者とした特別番組の企画が生まれた緒方さんはマチュピチュやクスコ県方面のあとウユニ塩湖へと向かったこの番組が多くの日本人がはじめてTVを通してウユニ塩湖を知る最初だったに違いない。

コイユリ・リテとビルカノタ山群
秘儀的要素の強かったコイユリ・リテの祭り
 私がはじめて日本の雑誌(昔発行されていた週刊読売やアサヒグラフほか)に紹介したアンデスのおもな祭りや風習は、「コイユリ・リテ(星と雪)の祭り」(クスコ県シナカラ山塊)、ワラカ(投石縄)を使った村と村の「投石合戦」(クスコ県カナス地方)、インカ時代からの風習「ケスワ・チャカ(草縄の橋)」(クスコ県カナス地方)、コンドルを雄牛の背に乗せて暴れさせる「ヤワール・フェースタ(血の祭り)」(アプリマク県)などである。CCouyllurrite01.jpg
 それぞれ思い出があるが、最初に触れるのは2011年に世界遺産に登録されたデ・コイユリ・リテの祭りである。自然信仰とキリスト教が混交したようなこの祭りに、私は1976年から82年にかけて4回出かけている。
 1980年代初盤から外国人観光客が訪れはじめたが、私が出かけていた最初のころは、クスコであっても、その祭りの存在どころかコイユリ・リテという名すら知らない人が多かった。それほど、当時はまだ、村人たちを中心として受け継がれていた秘儀的要素の強い祭りであった。
 1976年の5月,ウユニ塩湖をあとにした私はクスコに向かってきた。最初にツエルト(ボリビアに預けてきたため、1週間かけてビニールを糸で縫った手製)をかついで、向かったのはマチュピチュの南方に位置するサルカンタイ峰山麓である。まだ肝炎の病み上がり、高地で野営生活をすることによって、抱いていた体調への不安を払拭したかったからである。その生活を1週間無事過ごせたことから自信を得てコイユリ・リテを目指した。
 数日間の日程で祭りが開催されるシナカラ山の山麓に向かう登山口となるのが、マワヤニという寒村であった。村人を満載したトラック便が何10台も到着するといわれていたが、私が到着したのはまだ祭りがはじまる2日前、草屋根の家が数軒並ぶ村は閑散としていた。そのうちの一軒の主人を馬方として、荷物用と自分が乗る馬を雇って3時間ほどの山道を登ってシナカラ山麓へ向かう。
 石だらけの山よりに建つ礼拝堂を中心とした広場はまだ人影が少なく閑散としていた。クスコでまったく情報を得られなかった私は、その山麓にどれほどの数の人が集まり、どのようにして滞在するかなどをイメージとしていなかった。
 そのことからどこでも野営できると考えた私は、礼拝堂から離れた一角にあった岩陰に、サルカンタイ峰にも持参したツエルトを張った。その中に寝袋や自炊道具を詰めこんで一息をついていたころである。荷物をかつぎ、汗を流しながらあらわれた村人の若者兄弟から、「この地は、自分たちの祖父の、そのまた祖父の時代から寝泊まりしているところだから、ほかに移ってくれないか」といわれた。CCouyllurrite03,04,05.jpg
神に祝福された人たち
 広い野原全体に石囲いが見られた。それらのすべてが昔からの野宿地として家族や集落単位で決められていたのである。そのことを知って、どこで野営していいのやらと途方に暮れている私に、すぐ下方にあった石囲いの中から、「セニョールはハポネスかい、ハポネスならばここにきたらいい、一人くらい寝られる空間があるから」と、日本人に好意を抱いていたらしい老夫婦が声をかけてくれた。
 心細い気持ちになっていた私にとって、その言葉は嬉しかった。早速、彼ら夫婦が宿としている石囲いの片隅にツエルトを張らせてもらった。老夫婦はクスコ南方にあるサン・セバスティアンという村(現在は大きな町)に住み、何10年も欠かさずコイユリ・リテ詣出を続けてきたといっていた。
 翌日の昼過ぎあたりから、つぎつぎと参詣者が到着して山麓が人の波で埋まりはじめた。私の宿となった石囲いの隣にも、大きな布袋や薪をかついだ老若男女8人ほどが到着した。夕刻時、その中の若者兄弟が「セニョール、スープができあがったけどこっちにこないか」と誘ってくれた。大きな羊のぶつ切り肉やジャガイモがごろごろと浮かんでいる熱いスープであった。薪にしろ、それらの具にしろ、彼らが村からトラック便、それからは背中でかつぎ上げてきたものであった。
 はじめてコイユリ・リテに向かう前は、果たして村人が私を迎え入れてくれるかどうか不安があった。だが、こうした温かい人たちに囲まれて祭り期間を過ごすことができたのである。
 石囲いの隣にあらわれた兄弟たちは、その以後も朝夕に「スープができたよ」と声をかけてくれた。彼らはパウカルタンボの郡の大きな村に住むブストスという家族の両親と、20代の息子ペドロとミゲル夫妻だった。
 この回以後のコイユリ・リテでは、彼ら青年たちのおかげで深夜の氷河上に登るパウカルタンボのウクク(熊の意味を持つ)の集団に加えてもらえた。ペドロはこのグループのリーダー格でもあった。そのような縁があって私は彼らの村を幾度も訪ね、交流を深め続けることができた。さればかりではなく、クスコ市内でもときどき合っている(ペドロやミゲルは10年前ごろから、農繁期以外を過ごす家をクスコ南方に所有していた)。
 同じ石囲いを宿とさせてくれた老夫婦は、「俺たちが見張っているから大丈夫だ」といって、私のツエルトの番をしてくれた。撮影から戻ってくると、夫人は真っ先に熱いコーヒーをご馳走してくれた。つぎの回の祭りが近づくと、私はクスコからサン・セバスティアンまで出かけ、「今年も出かけるのでよろしく」という挨拶を欠かさなかった。
私一人だった異国人
 1876年と78年のコイユリ・リテでは、外国人の姿を一人として見かけなかった。テントも同じであった。燃料は誰もが薪を利用していたため、朝や夕の山麓は立ち昇る煙に包まれ、シナカラの山がかすんでしまったほどであった。祭りはほぼ4日間続き、集まった人たちの数は万を超していた。
 現在でもそうだが、コイユリ・リテ詣では毎年続けることによってご利益が増すと信じられている。村人は6月(開催日はキリスト教の暦によって毎年ずれている)に開催される、この祭りに合わせて、ときには月明りのなかで畑仕事をはかどらせて向かってくる。荷物を背負って、そそり立つシナカラの氷雪の山塊を仰ぎ見る地点にたどり着くなり、村人たちはセニョール・デ・コイユリ・リテ(コイユリ・リテの神)に挨拶をするために、チュリョ(毛糸帽)やモンテーラ(女性の帽子)をとって膝まずいていた。
 多くの男や女たちは感動で目を潤ませていた。中には、家族や親族で不幸や不運が続いたのか、「セニョール・デ・コイユリ・リテ」と口にしながら、乞いすがるかのように泣き崩れていた男もいた。
 最終日、山を下る村人たちはお互いに、「ハヨ、ハヨ」と弾んだ声をかけながら下っていた。その山道で出会った一人の老人に、「私がまたどうしても訪ねてきたい」といったら、その老人は穏やかな笑顔を浮かべて、「セニョールがそう思うのは、コイユリ・リテの神もまたセニョールを求めているからだ」といってくれた。
大昔からの聖域ビルカノタ山群
 コイユリ・リテにはじめて向かったあとである。私は一人の現地の青年とともに、マワヤニ村からビルカノタ山群北方にあるシングリナコチャという湖に出かけ、そこからの主峰アウサンガテ(約6484m)直下まで、大きな岩がころがる山野を数日間かけて縦走した。それ以後も、このアウサンガテ山麓に数回出かけて山麓の野営生活を体験している。
 アウサンガテは、大昔から聖域であったこの一帯を見守るアプー(大自然神)が宿る山として、「アプー・アウサンガテ」と呼ばれて崇められてきた。この方面について私の著書『インカを歩く』から引用したい。ccoylluririte06.jpg
 その記事は、ビルカノタ山群に向かう玄関口ともなるクスコ南方のウルコスで聞いた話として、クロニスタ(年代記述者)の記述からはじまる。
『「昔アウサンカタというたいへん尊崇された神殿があって、祖先たちはその近くで、彼らと同じ姿で同じ着物を着た偶像、つまり悪魔を見たという。(略)またこれらのインディオの話では、肉体から去った霊魂はある大きな湖に行き、―彼らの愚かな信仰によれば、この湖は彼らの誕生の地である―(略)その後、インカに征服されたので、もっと開化し、りこうになって罪悪もなくなり、太陽を崇めた」(シエサ・デ・レオン著、寺田和夫訳『インカ帝国年代記』筑摩書房刊・世界ノンフィクション全集。この記述中にあるアウサンカタの神殿は、アプー・アウサンガテのことかと推察される。(中略)大きな湖は、この山域ちゅう最大のシングリナコチャ(コチャは湖)のことかと思われる』
 私がシングリナコチャに出かけたのは、「湖の底に教会が眠っており、耳を澄ますと鐘の音が聞こえてくる」、「この湖底に住み、山域を徘徊する老人が、峠を越えるときは決して湖を振り返るな、と命じたにもかかわらず、振り返ってしまった婦人が赤子を背負ったまま石と化した」などの伝説が村人によって語り継がれていたからである。
 ほかに、私にコイユリ・リテを教えてくれたクスコの友人が、かつてブルッホ(呪術師)たちがこの湖で秘密の祭儀を行っていたといっていた。
 放牧されているトロ(雄牛)の恐怖におびえながら、湖畔で野営したあと、婦人が化けたといわれている石を目にした。ほかに村人は、湖底に住む老人は地底にも住み、ところどころに隠された黄金の番をしている、ともいっていた。実際、その話を信じている村人が掘り起こしたのであろう穴が、高原にところどころにころがっている巨岩の下に開けられていた。
 この氷雪峰に囲まれた一帯は濃紺の空に包まれ、茶黄色で染まっている。その茫洋とした高原世界を、このような大昔からの語り伝えを運ぶ風が流れていたのである。
 インカ以前からの聖域であったビルカノタ山群は、インカ時代も聖域として受け継がれてきた。ワヤワヤという峠やアウサンガテ山麓から、黄金のリャマ像が発見されている。ほかにも、この山中にある大きな石の下や湖の中にインカがアプーに捧げた金や銀が眠っていると村人は信じている。こうした偶像徘徊や黄金伝説が語られているビルカノタ山群と、奇跡をほどこす少年が徘徊していたという伝説が残されているシナカラ山塊が真向かっている。(09・2014)
写真:上左1976年⒒月に発表した「週刊読売」。就任したばかりのアメリカのカータ―大統領夫妻が表紙を飾っていた。この号は野球の日本シリーズが終わったあと。編集者からは、「巨人が勝ったら、入稿は1週間遅れる」といわれていたが巨人が敗れた。右はそのときのグラビアTOP。下上は祭り最終日早朝、祈りを終えて氷河上を下るパウカルタンボのウククたち。中と下は、岩のガレ場を山麓へと下るウククたち、薪の煙りで包まれた山麓の朝.。下はアウサンガテ山麓の早朝、番小屋の石囲いで休んでいたアルパカたち。
コイユリ・リテの祭りやアウサンガテ峰周辺については、私の拙著『インカを歩く』に豊富な写真とともに紹介してあります。

ティティカカ湖畔のナイトシアター
男を豹変させた接待酒 
 本コラムは、「190~80年代の村や青空市」中の「酔っ払い男と泣きまくる女」の後編になる。COescoma0102_.gif
 はじめて出かけたボリビアでは、ペルー寄りにあるティティカカ湖畔のエスコマという村を拠点として、トラック便でさらに奥地にある村に出入りしていた。宿は広場に面してあった食堂の2階、ベッドが隅に2つ並んでいるだけの大部屋だった。
 そのベッドの傍らで私は毎晩、ローソクを灯して登山用の小型ガソリンコンロを使って自炊していた。
 食堂兼宿を経営する家族全員が、3日ほどラ・パス市に向かってくるといって姿を消した初日の夕刻。私が野原から戻ると、番人役として雇われた老人夫婦が、2階へと通じる外階段のある中庭で、左官仕事を依頼していたらしい村の男2人に飲料アルコールらしきものを飲ませていた。あとから考えればこの接待酒が元凶で、飲ませてはいけない酒だった。
 男たちは庭を通り過ぎる私に、アイマラ語か何かでしつこく声をかけていた。意味はチンプンカンプンだったが、そのころの彼らの酒はまだ陽気だった。だが、暗闇に包まれはじめたころから豹変し、大声でどなり合いをはじめた。
 どうなることやらと思ったが、やがて2人して外に姿を消したらしく、大騒ぎの声も聞こえてこなくなった。しばらくしてから老人夫婦が同じ部屋に上がってきて、板の間の隅に毛布やポンチョを被りながら横になっていた。
 私はいつもどおり自炊料理をつくり、それを食べてからローソクを消してやはり眠りについた。まだ8時過ぎであった。それから一眠りしたと思った時刻、遠方から犬の吠え声とともに近づいてくる酔っ払い2人ほどの騒ぎ声で目を覚ました。
 どこかに消えるはずと思ったが、その酔っ払いたちが庭の中に入りこんできた。夕方に騒いでいた男2人がまたあらわれたのだ。老人が鍵をかけておかなかったらしい。そのことなのか、あるいは酒を飲ましたことなのか、老婆が老主人を責め立てているような声が届いてきた。
 男2人は庭の中で、以前と同じ調子で吠え叫び合っていた。いつまで続くことやらと気が気でなかったが、1時間ほどしたらふたたび外へと消えてくれた。「やれやれ」という思いであった。すでに⒒時をまわっていた。私はまた眠りについた。だが、そのままで終わらず、1時間ほどしたら今度は一人で戻ってきた男が、以前よりも大声を上げながら庭の中に入ってきた。
 それだけではなく、ガタゴトと音を立てながら階段登ってきたかと思うと、真っ暗な私たちの部屋に板の間にドカドカと入りこんできた。それからとめどもなく闇の中で、叫び、吠え、がなり立てていた。
苛立ちと諦め、そして恐怖
 老夫婦ではなすすべもなかったのだろう。2人は息をひそめていたが、しばらくしてから老婆がヒーヒーと泣き出した。これでは休もうにも休めなかった。私はベッドから起き上がってローソクを灯し、知るかぎりのスペイン語で「セニョール、もう遅い夜だ、休めない、眠れない」と懇願するようにいった。
 だが、男はそれに耳を貸すような男ではなかった。今度は私の方に向かって、やはり吠えて叫んでがなり立てていた。それに反応して老婆が闇を引き裂くような泣き声を上げていた。手の打ちようもなく、諦めるしかなかった。私はローソクを消してまたベッドに横になり、目を閉じてひたすら耐えていた。
 この旅のあと、ボリビアであろうとペルーであろうと、アル中と化していた村人の酔っ払いにどれほどつき合ってきたかはかり知れない。だが、このときがアンデスではじめて酔っ払いを目の当たりにした体験であった。部屋の隅にはマサカリやツルハシなどの工事道具などが置いてあった。何かの拍子で酔っ払いが怒り狂って、それらを振り回されたらたまらないという不安が頭から離れなかった。
 一睡もしないまま、ときどき呻き声を混ぜた男のがなり声や老婆の泣き声を耳にしながら時間が過ぎていた。ようやく男が床に倒れこんで静かになったのは3時過ぎだった。まるで悪夢のような夜だったが、それを振り返る余裕もなく私は睡魔に引きずられて寝こんでいた。
 だが、深い眠りの中にあった時間もわずか、今度は金切り声のような別の女の泣き声でたたき起こされた。
女が運んできた漬物石 
 私はベッドから半身を起こした。開けられたドアから差しこんでいる朝日の斜光が板の間に差しこんでいた。その板の間に横たわっている男に覆いかぶさって泣き叫んでいる女の姿があった。かたわらには、今にも泣き出さんばかりに顔を歪めていた幼い男の子が突っ立っていた。
 夜中、戻らない男を一晩中悶々と待ち続け、朝日の訪れとともに駆けつけてきた女房は、家族という漬物石のような重い石を運んできたのである。その石でドカンと押さえつけられた男は、一晩中に騒ぎまくっていた威勢を微塵も見せることもなく、ふらふらと立ち上がり、すごすごと部屋を出て姿を消した。そのあとを追うようにして、女が涙でぐしゃぐしゃになった顔を手でぬぐいながら,幼児の手を引きながらあとを追っていた。
 ほぼ暗闇となった時刻から延々と続いた、ナイトシアターは朝日の訪れとともに幕を閉じた。家族という重石を背負ってきた女が完結させてくれたのである。夜闇に続いた長くて疲れるドラマであった。ヘトヘトに疲労困憊した部屋の外は、すでに日が昇った茶褐色の高原を包んでガラス絵のような濃紺の空が広がっていた。(09・2014)
写真:左はペルー側から見たティティカカ湖とボリビアのイヤンプとアンコウマ峰、右はボリビア高原を行くアイマラ族の男たち。