• COLUMN アマゾンの貌(かお)

森の貌(かお)

拙著『アマゾン 森の貌(かお)』(新潮社刊・PROFILE & BOOKS 参照)び関連する幾つかの話題を本欄で取り上げたいと思う。
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1-投げ槍に殺された宣教師
 『アマゾン 森の貌』(以下『森の貌』と略す)10~11ページの「鋼鉄のような投げ槍」の項がある。ここで少し説明しているが、1987年、投げ槍で2人の宣教師が殺されていた。エクアドルのアウカ族(彼らの言葉ではワオラニ)の一集団であるタガエリ(タガという男を長とした40人ほどの親族グループ)は、迫りつつある文明を避けながら、コノナコ川流域を転々としていた。
 彼らに初接触を試みようとしたカプチーナ会(カトリック系)ミッション(布教団体)の高僧アレハンドロ(67歳)とシスター・イネス(50歳)が奥地へとヘリコプターで向った。
 パイロットの話では、ヘリがタガエリたちの小屋の上空で旋回していたとき、子どもも含めた何人かが歓迎するかのように手を振っていたという。そのあと、援助物資(ナベ、マチエテ(山刀)、食糧類など)を投下した。それらの物資をタガエリが小屋へと運びはじめたのを見届けてから、アレハンドロはタガエリ同様に全裸になって、イネスはシスターの白衣姿のまま、ロープを体に巻きつけてウインチ下降した。
 その様子を目にしていたタガエリはいったん逃げ去ったが、ふたたび小屋周辺にあらわれはじめていたという。降り立ったアレハンドロが、上空のヘリに向かって「早く立ち去ってくれ」と手をふって合図を送ってきたため、パイロットは現場を離れる。それから近くのコノナコ川の砂州に着陸して待機し、再度、小屋に向かおうとしたが、濃霧で小屋の位置を見失ったため、そのまま石油公社のベースへと戻った。
 翌早朝、彼らを迎えに、ふたたびパイロットはミッションや石油開発関係者とともにタガエリの小屋を目指した。だが、そこで目にしたのは惨殺された2人の遺体だった。アレハンドロは約19本、イネス約7本の投げ槍を浴びて草むらに釘づけにされていたのだ。
 エクアドル・アマゾンで石油開発(調査を含める)が行われはじめたのは、1940以前からである。最初はシエル石油だった。開発予定域に居住するアウカ族をほかの地へと移動させるために、シエル石油とプロテスタント系ミッションが接触作戦を開始した。
 その開発と布教活動の中で幾度となくアウカ族に襲われて、宣教師や石油開発労働者たちから多数の犠牲者が出た。こうした人を襲うときに昔からアウカたちが使っていた武器が投げ槍であった。
 就業者を11人も失ったシエル石油は、あまりもの犠牲の多さから50年代はじめにエクアドル・アマゾンから撤退した。だが、それからも石油公社(CEPE)と、入札をもらった他国籍企業が開発事業を続けた。同時に、プロテスタント系にカトリック系ミッションも加わって、それらの開発予定域のアウカ族をヘリを使って移動させる作戦が石油公社や多国籍企業の援助のもとで押し進められた。
消えたタガエリ 
 その作戦から逃げまわっていたのがタガエリであった。アレハンドロをリーダーとする、そうした空からの活動が芳しい成果を上げていなかったことから、石油公社はそれまでカプチーナ会と結んでいた資金援助契約の解約を申し渡した。同時に、地上から接触を試みていたエンリキという老社会学者とあらたに契約を結んでいた。そうした背景があった直後に起きた事件であった。
 私は首都キト市内に住むエンリキの自宅を、1989~90年に数回訪れたことがある。事件当日、近くの森の中で活動していたエンリキは、ヘリが移動していた音を耳にしていたといっていた。それ以後も何度も奥地流域に出かけてタガエリを探し続けていたエンリキは、「アレハンドロが殺されたことによって、以前にも増して自分の活動が困難に、そして危険なものになった」と嘆いていた。
 タガエリは事件以後、さらに森の奥深くへと姿を消した。タガエリの消息を知りたいと思った私は、日本に帰国してからエンリキに何度か手紙を送ったが返事がないまま月日が過ぎていた。だが、ある日、エクアドルから一通の手紙が届いた。エンリキではなく、彼の息子からであった。封を開いたら、「父が何者かによって暗殺された。それについて何か知っていることはないでしょうか」と記されていた。愕然としながら、私は自分は何も知らない旨の返信を送った。
 タガエリは果たしてどこに消えたのだろうか。もしかしたら、その謎を地上で接触活動を続けていたエンリキが知っていたことから暗殺されたのだろうか。もっと勘ぐれば、タガエリは大きな組織によって消されたのかもしれない。そのような想像がつい膨らんでしまうほど、タガエリの消息が途絶えたことはミステリアスだった。 
 私が出かけたアウカ族居住地のひとつがコノナコ川流域であった。そこに住むアウカたちは、以前からタガエリを怖がって避けてきた。同族からも嫌われ、孤立化し、疑心と迷信や妄想世界に包まれていたであろうタガエリは集団内部の矛盾を拡大し、しだいに凶暴化していたのかもしれない。
 カプチーナ会が事件発覚後に撮影した宣教師の遺体の写真を複写させてくれた。無数の傷跡を持つ2人の無惨な姿を目にして、拙著にあるように鋼鉄のように固くて重く、さらに鋭利な投げ槍の威力を知らされた。同時に文明、開発、布教、それらと投げ槍、消えたタガエリが混沌と混ざり合ったようなアマゾンの空気によって体全体が虚脱感で包まれる思いがしてきた(2015・06・07記)
写真左から:エクアドル・アマゾンの奥地に進む石油開発最前線基地。水浴びをしていたアウカ族の少女。未開発の樹海を蛇行するコノナコ川

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2-咆哮するジャガ-
 『森の貌』32~33ページに「咆哮する恋の季節」の項で、ジャガ-が吠えまくる夜について触れた。そこで記さなかった体験をここに記したい。
 1985年ごろに出かけた初期のペルーの旅。ボリビア寄りの流域でワラヨ族の男が夕食後にジャガ-のレメダル(声帯模写)をしてくれた。だが、毎晩、ジャガ-からの返答はなかった。
 その日の夜も、私たちはカヌアで遡行してからエンジンを消して下降し、ところどころで舟内で男が「唸り」続けた。9時過ぎ、応答が得られないままキャンプ地の砂州に近づきつつあったころ、近距離と思われる下流側からジャガ-の大咆哮が返ってきた。
 瞬時にぞくぞくと震えるような緊張感が体を走った。だが、それ以後は返答もなく、ふたたび夜闇が静寂さに包まれた。キャンプ地には、私のテントや仲間の蚊帳がふたつ張られていた。食糧も放置したまま、焚火場ではまだ薪がいぶっていた。
 カヌアから降りるなり、砂州に残されていたジャガーの足跡を見つけた。驚いたことにその足跡からは食糧やテント、蚊帳、焚火場などを目にして関心を示したり、あわてたりしていた様子が見られなかった。一定の歩幅のまま、キャンプ地の真ん中を直線で突き抜けて森側方向に消えていた。
 このとき、ジャガ-が何を考えているのかわからなくなった。数年後、ほかの仲間2人とともに別の流域に長期間の旅に出かけ、パカという竹の多い川岸近くの森に野営地を設けた。昼はキャンプ地の整備のために、そのパカを切り払って草や落ち葉とともに燃やしていた。
数m近くから吠えられる 
 ある日の深夜、ジャガ-の咆哮が聞こえてきた。隣の蚊帳で寝るリゴという仲間にそのことを伝えると、彼も耳にしていたようで、「はるか遠くだ」といった。10分ほどしてからふたたび咆哮が聞こえた。「おい、近づいているぞ」と私がいうと、リゴは「まだ遠い、どちらにしてもこちらにはこないだろう」といった。そんな会話を2,3回繰り返していた。
 やがて咆哮が消えたことから、ジャガ-は別方向に向かったに違いないと私は判断し、ようやく落ち着いた気分が得られてウトウトしはじめた。すると突然、キャンプ地の数m近くと思われる地点から大きな咆哮があがった。仰天した私はリゴに大声をかけ、「火をたこう」といった。それから私とリゴはテントや蚊帳から抜け出し、パカを燃やしていた焚火場に火をつけた。あとから、よほどあわてていたのだろう、もう一人の男が素足のまま駆けつけてきた。まだ、何本か残っていたパカが火力が勢いを増すとともに、銃声に似た音を発してつぎからつぎへと破裂していた。
 やれやれという思いで、「まったく人騒がせなジャガーだ」などと話し合っていたころ、対岸から大きな咆哮が3回響いてきた。ジャガーは私たちのキャンプ地に気づかず、思い切り大きな唸り声を上げた途端、「リゴ」と叫んだ私の声にびっくりし、それから森を駆け抜けて川に中に飛びこんでいたことになる。
 このとき、以前に増してジャガ-が何を考えているのかわからなくなった。数年前と同じように嗅覚はどうなっているのだろうか、と不思議に思えてしかたがなかった。すでに20日間以上滞在していたキャンプ地には、男3人が日々流していた汗の匂いで満ち、昼に燃やしていたパカや草木の燻った匂いも漂っていたはずだからである。いずれにせよ、対岸から聞こえてきたジャガ-の咆哮が、苦々しい思いからの怒りの叫びにも思えてきた。まったく予期していなかった人間の声を耳にし、ジャガ-もまた度胆を抜かれたに違いない。
 『アマゾン 森の貌』にはジャガ-の唸り方を記している。読者のうち1人でもいいからジャガ-のレメダルを試みてはいかがだろうか(2015・07・08記)。
写真:左は霧に煙る砂州のキャンプ地。右は大きな砂州に残されたジャガーの足跡

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3-凶暴な大雨
 『森の貌』の後半に設けた、「大雨が魔界に変える」、「激流の川が生んだ逆流」、「誰もが口を開かなかった」で、大雨の恐怖や不安を記した。そこで触れなかった話題をここで紹介したい。
 大雨が毎日続くことは不気味である。大雨によって、川や森を含めた自然が大きな魔物と化して、いつ、どこで予測できない破壊力をともなって襲いかかってくるように思えてくるからだ。同書には、そうした怖さにいたたまれなくなってなって、1カ月の日程を1週間前に切り上げて逃げ出したことを記した。この悪天候漬けになる予兆は、奥地にベースを築いた直後からあった。ただし、そのころは私や現地の青年も、大雨がそこまで森や川を激変させるとは予想していなかった。出かけた10月は終盤とはいえ、まだ乾期。例年ならば猛暑の日照りが続いているからだ。
 私たちはベースからエンジン搭載のカヌアで出かけ、2時間ほど森歩きをしてからふたたび川岸に戻ってきた。そのとき、繋いでおいたカヌアの位置が2mも上昇し、ガタガタと音を立てて騒いでいた。前日あたりに上流側で降った大雨によって川が激流と化し、増水していたからだった。その翌日もやはり、森歩きをしてから川岸に戻ってきた。カヌアに乗り移った青年が後部のエンジン方向に向かうのを見届けてから、私は繋いでおいたロープをカヌア内に投げ入れて舳部に乗りこんだ。
激流の川に落下する
川は前日に増して泥色の激流に変わっていた。 そのため、私は青年がエンジンを起動させやすくするためにしばらくカヌアを引きとめておこうと考え、川岸に張り出していた木の根に両手を伸ばした。だが、急流に乗せられたカヌアと川岸との距離が急に大きく開いた。それき気づいたとき、私はすでに身を乗り出していた。それでもなんとか根をつかむことができた。そのことで崩れた自分の体のバランスが保てると思った瞬間、バリンという音を立てて根が折れてしまった。枯木だったのだ。
 「しまった」と思った刹那、私は激流の川の中に頭から落下した。川の中で岸辺近くにあるはずの木の根や草をつかもうとしたが、ひとつの手掛かりも得られなかった。後から考えれば、すでに川岸から遠く離れていたのだ。手をばたつかせても体を浮かび上らせることもまったくできなくなっていた。履いていた長靴に水が入って重石と化していたからであった。それでも泳げるはずだと思って必死に両手で水をかきまわしていた。
 そうしてもがいていたころ、私は助けられた。私が川に落ちたことに気づいた青年が、川面に見えていた私の背中部分のシャツをつかんで引き揚げてくれたからだった。カヌア内に這い上がったとき、すでにカヌアは川岸から4、50mも離れていた。私にまだ1パーセントの幸運が残っていたのだ。
 彼岸の世界に足だけでは全身を突っこんだような日から、一週間ほどはまだ森歩きに出かけていた。まだ森歩きができる状態だったからだ。とはいっても必ず森の中で大雨に打たれていた。そのため、私と青年は雨が降ってくるなり、近くから切り集めてきた羽状ヤシの伸びていた枝木にかけて、長いときは2時間以上その場にうずくまっていた。
 そうした雨がさらに本格化し、どこもかしこも水浸しになってもはや森歩きに向かえなくなった。ベースで手持ち無沙汰になりながら過ごしていた午後、空に用意されたダムが決壊したような大雨に見舞われた。その1時間後、川の変化を見にでかけた私が目にしたのは、舟体をほぼ川の中に沈めていたカヌアだった。それからというもの、私と青年はバケツを手にして川岸に向かって1時間ほど水汲み作業に追われた。なにしろとんでもない大雨。掬っても掬ってもカヌア内の水を減らすことが難しかったが、それでもなんとかカヌアを川面から浮かせることができた。あとから考えれば、こうしたことはまだ予兆に過ぎなかったのだ。
水汲みと位置替え
 以後、朝から晩までベースから離れることができない日々が連続する。ふたたび空のダムが決壊したような大雨ばかり、カヌアの水汲みや激流が運んでくる大きな流木につからないようにすためびにロープを引っ張ってカヌアの移動に昼夜明け暮れた。
 大きなビニールをかけていたベースであっても地面は泥だらけ。濡れた椅子に腰をかけていた足元を、行き場を失った無数のハキリアリがつぎつぎと襲ってきた。やはり巣を追われたハチもしきりに飛んできては体にまとわりついてきた。テントに潜っても毛布、寝袋などが腐りきるほど湿っていた。10数点持参してた衣類はすべて濡れたままで乾かすすべがなかった。
 ある日の午後、青年はカヌアを上流側に移したあと、直径約40㎝、高さ20mほどの木をマサカリで撃ちはじめた。その木は崖からわずか1mほどのところに立っていたため、雨続きで地盤がゆるみ、いつ倒れるかわからなかったからであった。
 私たちは到着時からカヌアを繋いでおいたその木の真下に、日に何回かカヌアの点検や水汲みに出かけたりしていた。そうしたときに、もし木が倒れていたらカヌアもろとも私たちは倒木の下敷きにされていたかもしれなかった。実際、30分ほどしてから青年が切り倒したその木はバリバリと音を立てて、それまでカヌアを繋いでいた岸辺と川面の真上に倒れこんでいた。
 アマゾンの自然は怖いものばかりだ。川の中で落下する雷に囲まれたときも怖い。そして、このように連続する豪雨も怖い。それぞれ怖さは違うが、豪雨が続くことでまわりの自然がどのように激変するのか予測がつかなくなる。その中に『森の貌』でも記した、夜中に砂州が削られた川の逆流や、助かったことが不思議な暴風ベンタロンとの遭遇なども含まれる。それらのすべてが、まわりの森や川を大きな魔物に思わせる怖さを生んでいた。
写真左から:大雨で湖沼と化す森の中。雨水浸しになるベース。木を倒して小さな川を渡れるころはまだ森歩きができた。

熱帯地と人間
密林に消えた日本人
 ペルー南部アマゾン地方になるマドレ・デ・ディオス県の県都プエルト・マルドナド(以下マルドナドと略す)は、タワンティン・スユ(四つの地方からなるインカの国)のひとつである東方圏に含まれていた。この町の近くから、インカが戦争で使ってい石の武器が大量に見つかっている。どこまでインカ道がのびていたかは不明だが、この方面までインカが進軍していたことは確かである。CPB0123.jpg
 そのルートとして考えられる一本が、クスコ市から望め、アプー(大自然神)が宿る山として名高いアウサンガテ峰近くの峠を超えてから、プノ県高地に源を発するイナンバリという川に出てそこから森林帯へ向かっていた。ほかの一本がプノ県のティティカカ湖北方高原から、現マクサニ村あたりからやはりイナンバリ川へと下っていた。
 イナンバリ川には私の著書『インカ帝国―大街道を行く』で紹介した、チャクラ・デ・オロ(黄金の畑)という、インカが築いた石畳のような砂金採取場が残されていた。私にそのことを教えてくれたアラスカ在住のアメリカ人は、その流域で、何キロもの長さを持つ石畳みのインカ道を30年前に目にしたといっていた。
 インカがこのあたりをはじめとした熱帯地を、どのように支配していたかについてはいまだに謎が多い。いわばインカの未知ゾーンともいえるプノ県高地からアマゾン側へと通じる一帯に、日本人としてはじめて入りこんだのが明治の若者移住者である。
 今から100年以上前、リマ市南方の海岸地帯にあったカニエテを中心とした農園に就業した明治の若者は、劣悪な労働条件やマラリアなどの風土病が発生する環境に絶望し、多くが集団脱走した。彼らが新たな夢の地として目指したのが、カウチョ(天然ゴム)採取の仕事を求めたマルドナド方面のアマゾン域であった。カウチョ・ブームが去ってからも、このアマゾン方面へと農園を抜け出した日本人、あるいは農園を得ずに直行した日本人が続々と向かった。
 脱走組の多くの若者が進んだルートは、リマからアレキーパ県の港まで船で向かい、そこから山を登る列車でティティカカ湖北方に古代神殿遺跡が残されているプカラ方面へと進んだという。そのあと、二週間ほどインカ道を歩いたあと、マクサニに近いカラバヤという山群の南方にある峠を越え、イナンバリ側の南に位置する激流のタンボパタ川を手づくりした筏に乗ってマルドナドへと向かった。
 彼らがアマゾン方面だけではなく、インカ道を最初に歩いた日本人ということにもなる。以後もマルドナドを目指した日本人は増加し、当時のこの町は日本人であふれていたという。現在、彼らの2世で存命している人は私の知るかぎり1人か2人である。3世たちの大半が日本で就業している。
 数年前にブラジルと舗装された国際道路で結ばれ、町の中を流れる大河マドレ・デ・ディオス川に架かる鉄橋も完成したマルドナドは、ますます膨張の一途をたどっている。私がはじめてこの町に向かったのは1985年である。そのとき、大正2年に日本を発ったのち、カニエテの農園を脱走してタンボパタ川を下った鹿児島県出身の福元英二さんが80歳を過ぎても健在だった。
 福元さんはカニエテの農園に到着するなり、近くの丘の上にある日本人墓地を目にして、その墓塔の多さに驚いた。ほとんどが病死だったことを知り、「この国に死ぬためにきたのではない」と脱走を決意したという。川を筏で下ったことについては、「泳ぎが得意だった者が、川の様子を調べるために出かけて死んでしまったがのう」と話しておられた。
 マルドナドに到着後、ボリビアで長期間働いたあと、ふたたびマルドナドへ戻ってきた。当時、ボリビアとの出入国はパスポート提示の必要もなく、国境係官が「いい旅をするように」と送り出し、帰ってきたときは「よくぞ戻ってきた」と歓迎してくれたらしい。
 この福元さんが、ボリボアから持ち帰ってマルドナドの中央広場に植えたヤシが、大木として生長して多くの人々に憩いの木陰を与えている。
リベラルタ方面に消えた日本人
 この時代の移住者はアマゾン地方、ボリビア、あるいはブラジル方面に分散していた。
今から30年前ごろになるが、私が発表したボリビアの記事を読んだ60過ぎの九州の婦人から手紙をいただいたことがある。その手紙はもっと丁寧な日本語で、さらに達筆に書かれていたが、内容はおおよそつぎの通りである。
 「自分が7歳のころ、両親は私よりも年長の兄弟姉妹3人を連れてボリビアのリベラルタに向かいました。小学生のころ、漫画雑誌の●●に夢中になっていたころに、一度だけ、父から、そろそろ帰国するつもりだ、という手紙をもらって毎日を楽しみに過ごしておりました。だが、それからまったく音信が途絶えてしまいました。ボリビアを歩いておられる高野さんならば、私の家族の消息について知っておられる方をご存知かもしれないと思ってお手紙を書かせていただきました」
 私はすぐに、ラ・パス市を訪れた際にいつもお世話になっていた大分県生まれの清成永義さん(故人)に、その旨を記した手紙を送った。清成さんは、当時まだ存命だったリベラルタ在住の長老の日本人に問い合わせてくれた。
 清成さんから届いた手紙によれば、「両親は何度も畑が水害に見舞われたあと、黄熱病で死亡、残された子どももすべてが熱病にかかって死亡、長男の子どもがサンタ・クルース市(ボリビア南部最大の都市)方面に向かったらしいが、その後のことは不明」、そのように記されていた。
 私は、その清成さんからいただいた手紙を、そのまま九州の婦人にお送りした。何10年も抱いてきた希望への糸を断ち切るよう辛い内容ではあったと思う。婦人からは「ありがとうございました」という返信があった。この「ありがとうございました」には夫人の万感の想いがこめられ、その重さに言葉を失うほであった。勝手な憶測と想像で申し訳ないが、きっと私に手紙を出すまで婦人の懊悩は計り知れなかったに違いない。
 たとえ両親が亡くなっていることを覚悟していたとしても、「平和で過ごして生きていて欲しかった」という想いと、もし、そうだったにしたら、「なぜ便りをくれなっかのだろうか、自分は両親に見捨てられていたのだろうか」という複雑な気持ちが交錯していたはずである。幼いときの残像でしかとらえきれない父や母、兄弟の笑顔を思い出しながら、彼女は50年以上、どんな想いで肉親への絆を支え続けていたのだろうか。
 私への手紙を出そうと思ったときは、よほどの勇気や決意を必要としたに違いない。また、私が送った報告の手紙を目にして、幼いときから捨てなかった希望が白紙に戻されたかもしれなかった。
 このようにリベラルタ方面に向かった日本人が、熱帯病や事故でどれほどの数で亡くなられたか計りしれない。リベラルタの町はずれにある墓地には、日本大使館や清成さんをはじめとした日本人会役員の力によって、墓も残せずに密林の露として消えた日本人の慰霊塔が建設された。
 こうしてアマゾン地方に散らばった日本人の中には、一箇所に長く居ついた人もいて、そこが現在の村名として残っているところもある。その地名のひとつが、ボリビアのサバンナ地帯にあるイシヤマである。
 ほとんどの人がゴム採取の仕事を求めて向かっていたが、中には砂金地帯に足を向けた人たちもいる。
 タンボパタ川を下ったか、あるいはティティカカ湖畔沿いのインカ道を歩いて向かったかどうかわからないが、6000mを超すボリビアのイヤンプ山の麓にあるソラタの町や、その周辺で日本人の名を耳にしたことがある。ソラタは黄金を求めたスペイン人によって18世紀に築かれた。1973年に私が出かけた際、ここの広場近くで昔から雑貨商を営んでいた日本人がいたと町の人がいっていた。
 また、ソラタと谷間をはさんで向かい会う斜面地にあるひなびた村を1976年に訪れた際、そこに住む老人が「昔、アマゾン側へと下った川で日本人といっしょに砂金洗いをしたことがある」といって、懐かしそうに3人ほどの日本人名を挙げていた。
 その中で、私の記憶にあるのはコバヤシという苗字である。これらの人たちも、おそらく海岸側の農園を脱走したのかもしれなかった。
 ペルーの海岸側は現在でこそ、町や村、そこに連なる広大な畑が広がっているが、昔はどこまでも果てしない砂漠地帯のみの広がっていた。海岸側の気候は、高地側が雨期の季節(11~4月)強い日差しでまるで窯の中にいるような暑い夏と化す。かわって高地側が乾期の季節(5~10月)は昼夜にわたって、どんよりとした霧のかかった肌寒い冬と化す。
 色彩豊かな日本の四季ときれいな水になじんだ日本人の若者の目に、猛暑や霧に包まれた荒涼とした原野はどのように映ったのであろうか。おそらく到着したばかりの誰もが、想像もできなかった空漠とした風景や自然環境に打ちのめされたのではないかと思う。
 その面から想像すれば、アマゾン方面に目を向けた日本人は、ゴム採取や農業という仕事以外に緑や水の風景を追い求めていたのかもしれない。(09・2014)
写真:左は雨が降るマドレ・デ・ディオス県内の支流、中はマルドナド市内の旧墓地内にある日本人墓地区。右はボリビア・リベラルタ市内の墓地にある日本人の慰霊塔。

現代の交錯

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「熱い」コロンビア・アマゾン:村の中の会話
 コロンビア・アマゾンは不思議な世界である。私が出かけた1990年代前半は、石器時代さながらに狩猟生活を続けている裸族がいるかと思えば、その周辺でゲリラが活動し、麻薬植物(コカやケシ)の栽培と麻薬の生成生産が行われていた。
 メデジン・カルテルの首領パブロ・エスコバルが全盛の時代は、麻薬取引業者間の血の抗争が、町や村、アマゾン域の中で頻繁に起きていた。その熱帯域を歩きながら触れたコロンビア的な空気が流れている世界を記したいと思う。
 秘境の秘境ともいえる最奥地にテーブル状の岩山地帯が広がるチリビケテ山塊という、管理されていない名前だけの国立公園があった。その近く、とはいっても、そこから200キロ近くに点となって存在していたひとつの新興の村に出かければ、セスナを利用してアプローチできるかもしれなかった。その可能性があるかどうかを確認したいと思った。
 だが、問題は山積みであった。その村は普通の村ではなかった。村そのものや周辺がゲリラの徘徊域と麻薬植物と基礎麻薬の生産域で染まっていたからである。
 現在は見られないと思うが、まず最初にアマゾンの玄関口ともなる町から米軍の払い下げといわれる大型双発機に乗って、熱帯サバンナに囲まれた県都に到着した。この町自体が数年前までは麻薬カルテル間で起きていた抗争の中心地で、毎朝、路地裏や大通りに数人の死体がころがっていたという。
 そのような過激なビオレンシア(バイオレンス)の時代は過ぎていたが、問題は出かけたい村がゲリラの活動域になっていることだった。投宿先のホテルで、「自分と一緒に出かければ村周辺で活動しているムチャチョたちはまったく問題ない」といってくれた40代のホセという男がいた。
 彼はその村に住む農民であると同時に村会に関わる政治家でもあった。また、同じホテルに常駐していたセスナ機の若い女性パイロット2人も、自分たちと一緒に行けばムチャチョたちがセニョールに危害を加える心配はまったくない」といってくれた。 コロンビアはなぜか若くて陽気な美人女性パイロットが多かった。ムチャチョとはスペイン語で若者を意味するが、ここではFARC(コロンビアの一大ゲリラ組織)のゲリラたちを指していた。
 町から村までの飛行時間は2時間。宿はホセのトタン屋根づくりの自宅の一室に泊めてもらった。村には泥道の大通りが一本あった。そこに並んで今日のドル価格●●●と書かれた看板を立てた店が何軒か並んでいた。ドル価格というのは嘘で、麻薬(麻薬先進国のコロンビアの場合、ガソリン使用生成で純度90%のコカイン・バセ。ペルーやボリビアは石油使用で純度は70%といわれているコカイン・パスタ)の価格のことであった。
 ほかに壁無しの食堂、または酒場やディスコ店などが並んでいた。ある日の朝方、ホセが「あそこで待っているから」といった、その大通りに面したコーヒー店に向かって、人影が見られない民家が並ぶ路地を歩いていた。すると一人の少女が一軒の軒先から飛び出してきた。
 彼女が私に、「おはよう」とかの挨拶もなく、いきなり「セニョール、昨晩人を殺さなかった?」と問いかけてきた。 まだあどけない少女の小さな口から発せられた言葉とは思えなかった。咄嗟のことで意味をつかめず、戸惑いながら「殺していないよ、どうして」と答えるしかなかった。
 朝方そうそう、突然水をぶっかけられたような気分にじわじわと落ちこんでしまった。そのときの私の顔は半分笑い、半分引きつっていたに違いない。少女は納得をしたのかしてないのかわからないような表情を浮かべて、「フーン」といったあと家の中へと消え去った。
 そのあと、コーヒー店でホセや、彼の村仲間でもある男たちと会う。彼らが口をそろえて、「昨晩、一人の男が死んだ」といっていた。「意地が汚なく、盗みを働き、少女を凌辱した」という男が、「近くで死んだ」ということである。死んだのではなく、誰かに殺されたことは明白なのだが、誰もがそういわずに「死んだ」といっていた。
 コーヒーの飲み仲間となった首都ボゴタ生まれの小学校教師が、「男が死んだところに行ってみよう」と私を誘った。死んだところは役場の真ん前。まだ、血痕が地面に広がっていた。彼は「ここで死んだ」という。「誰が殺した」と尋ねても、彼の返事はコーヒー店で会ったほかの男たちが口にしていたように、「誰も知らない」であった。
 それ以上聞くことはヤボなことだった。口にしなくても、明快過ぎるほど明快なことが前夜行われていたのである。警察も軍にいない治外区域の村。不良男の扱いに困り果てた村役場の幹部は、普段から何がしかの税を納めて治安を委ねているゲリラに相談する。そのことから誰かが請負人となって、「それでは了解した」と、フィスティシアを実行されたことになる。フィスティシアは裁判のことになるが、ここでは即刻の銃殺刑を意味していた。
 そのころのコロンビア・アマゾンで生きるには、「見ザル」「聞かザル」「いわザル」の3ザルにならなければならなかった。中でも「いわザル」になるために,誰もがコロンビア独自の会話言葉を身につけ,そこから少しでも脱線する言葉を口にすることはなかった。
 ムチャチョについてもそうだが、軍や警察という言葉は使わなかった。「レンガ・ラルガ(長い舌)の男」になりたくないからである。なんでもかんでもペラペラと舌をのばし放題にのばして話す男は、「長舌の男」としてフィスティシアの対象として選ばれ、森に連れていかれてそのまま戻らないという話を何度も耳にした。 
 朝方の少女は、きっと家の中の会話から「誰かが怪しげな男を殺した」という話を聞き、その誰かが誰であるか気にかけ、たまたま通りがかった私に質問をぶつけたに違いなかった。
 少女は無邪気である。大人は殺人であっても、いったん外に出れば「死んだ」という表現しか使わないが、少女は「殺した」という言葉を素直に使っていたのである。ただ、その対象として尋ねられた私の気持ちはたまったものでなかった。(見ざる、聞かザル、いわザルは、日光東照宮の彫刻からも知られているように日本独自のものかと思ったが、なぜか、 
ペルーのクスコ市内の民芸品店でもそのような彫刻ザルを見かけたことがある。どうした広がりなのだろうか)(09.2014)
写真:1980年代、アマゾン地方へ飛んでいた米軍払下げの大型双発機。貨物専用で3度ほど私が乗ったときは、何10本ものドラム缶、あるいは雑貨や酒類だけで、乗客は私一人のときもあればほかに2,3人だったときもあった。下は雨期、バウペス川のユルパリ段滝で漁獲に励む村人たち。
『「熱い」コロンビア・アマゾン』の続編はこのあとも予定していますが、コロンビアの先住民や、クルピラという妖怪、ユリパリ段滝で聞いた怪談などについては、拙著『驚きのアマゾン-連鎖する生命の神秘』(平凡社新書)で触れています。

野営生活

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1-熱帯の最高級料理

拙著『アマゾン 森の貌』(以下、『森の貌』とする)の中盤に、「大成果のあとに待つ大仕事」という項がある。そこには、大きな大魚を釣ったあとの仕事としての燻製づくりを紹介している。その燻製は森歩きに持ち歩きする行動食になるだけではなく、スープの具もなってくれた。このス-プには、独自の香ばしさが加わって格別のおいしさがあった。
 大魚の収穫があったときは、この燻製加工をする前にパタラシカをかならずつくっていた。パタラシカとは森の中に自生している大きな幅を持つビハオという植物の葉っぱで魚の切り身や卵巣などを包みこんで蒸し焼きにする料理のことである。この料理は焚火の上に包みを載せておいてもつくれる、じんわりじっくりと蒸すには、何といってもオルノ(窯)がいちばんだった。
 ベースを築くとかならず、半日ほどかけて川岸からバケツで泥を運んできた泥でドーム型のオルノづくりをした。オルノを崩れないように形に仕上げるために、内部にしならせた棒を最初につめこんでいた。焚火で熱しているときに、その棒は焼け焦げてしまうが、泥が加熱されて固まればオルノそのものが崩れることはなかった。
 30分ほど挿入した薪を燃やしたあと、オルノの熱し具合を手の平で確認してから、トタン板か壊れたシャベルの上にビハオで包んだ魚の肉身を載せて内部に挿入する。それからトタンで塞いで30分以上待つ。いよいよできあがりと判断したころ、中から取り出した半焦げになったビハオの包みを開くと、フワーンと湧く湯気や香りとともに、しっかりと蒸し焼きにされたパタラシカ料理が顔をのぞかせる。この料理は、コラム「現地の食材と料理」のアマゾン編にも記しているが、塩にサチャクラントロのみ、ほかの調味料はいっさい使わない。それだけで極上の味にでき上がってくれるからだ。
 パタラシカを完成させたあとは、せっかく熱したオルノを遊ばせておくのがもったいなく、練ってから団子状にした麦粉を挿入してパンをつくっていた。このパンはふくらし粉を混ぜていた。「森のパン屋」をはじめたと喜んでいたものの、何がどう欠けていたのか理解できなかったが、どうしてもふっくらとしたパンに完成してくれなかった。固かったことことから、私たちは「パン・デ・ピェ-ドラ(石のパン)」といってそれを齧っていた。でも、アマゾンの手づくりパン、行動食に最適だった。
 長期滞在するべースで、このオルノよりも最初につくっていたのがカマドであった。このカマドはオルノよりもつくりやすかった。泥で固めて穴を2つ、ときに3つ並べるだけで、ご飯を炊けたり、スープを煮たり、あるいは魚を焼いたりと、同じ薪材でそれだけの煮炊きを同時進行させることができた。何よりも助かったのはフライパンを安全、かつ無難に使えたことだった。
 ほかに、やはり必ずつくっていたのが、地面を掘り起こして穴にヤシの葉を被せた天然冷蔵庫である。この天然冷蔵庫の効果はすばらしく、いつしか日々の生活に欠かせないものになっていた。アマゾンの森の中の気温は約35℃である。だが、地中の温度は約20℃。その数字だけでいえば単純温度差は15℃もあった。蒸し暑い森歩きから汗だくで戻ってくるなり、仲間たちと天然冷蔵庫から取り出した水を口にし、「オー、エラーダ(氷点下)」と叫び合ってゴクゴクと飲んでいた。舌や喉の実感としてはそれほどの冷たさが感じられたのだ。難点は、大雨が降るとその冷蔵庫が水溜りに化すことだった。
写真左から:三つの穴を設けた泥つくりのカマド。やはり泥を固めて念入りにつくったオルノ(窯)。地面を掘り起こしてつくった冷蔵庫

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2-ワンパターン生活
 夜営生活は砂州にしろベースにしろ、ワンパターンともいえる習慣、もしくは決めごとを日々の生活の中に徹底して浸透させている。
拙著『アマゾン森の貌』で「1円が千円、5千円、1万円になるような楽しみ」の項で記した釣りについてもワンパターンが随所に含まれていた。
 餌は落下したヤシの実の中で成長しているスリ(幼虫)を最初に見つける。その場で拾い集め、ズタ袋に詰めてベースに持ち帰って保管しておく。4時ごろからの日課として釣りを行う前に殻をマチェテ(山刀)で割って1人15匹程度のスリを確保する。そのスリを餌にして森の中にある小川で釣ったモハラという小魚を持参して大きな川へ向かう。それからモハラをぶつ切りにした本格的釣りの開始である。魚がいちばん食いついてくれるのは何といっても魚の切り身であった。
 その釣りには、さまざまな釣り具やペンチやハサミなどが詰まった手作りの箱を運んでいく。かならず流木に引っかけたり、大きな魚に切られたり持ち去られたりして、針や糸、錘などを失うからである。
 個人的にも、悔しい体験を重ねた結果から、習慣化させたワンパターンがある。私は釣りのはじめにマッチ棒程度の針とナイロン糸を装着した釣り竿を使っている。これも、飛び出た川岸の陰の地点で、普通の釣り糸と釣り針を使って、何度も大きな魚に糸を切られて逃げられていたからであった。
 その太い糸につけた釣り針をそうした陰の地点に静かに垂らすようにしてからは、そこに、もし大魚が休息していれば、しばらくしてかならず釣り針が岩にぶつかっているいうな感触が手に伝わってくる。それから急激に餌を呑みこんだ魚がグイグイと針を引っ張る。その力は強く、20キロ級の魚のときは、竿をそのまま握っていれば自分が川に引きずりこまれそうになる。それでも魚が力を弱めてくれるまでひたすら耐え、ふっと引きが弱くなった瞬間、一気にグイグイと引き揚げる。
 こういう大魚は竿を頭上高く持ち上げることなどできない。ナイロンを握って引っ張り上げたあとは、魚がどれだけ跳ねても決して川に戻れないはずの森側まで竿を肩に竿をかついで疾走する。これもまた、ジャンプした魚から針がはずれて川に逃げこまれたことが何度もあったからである。
 個々が釣り場へマチエテへ必ず運んでいくことも決めごととしている。釣った魚を逃がさないためには、まず頭部を強打する必要がある。また、脇ビレや背ビレで刺されないためにも、その部分を最初に削がねばならなかった。ほかには川岸に毒蛇がトグロを巻いていることもあるからだ。
 つぎは森歩きに向かうときの話をしたい。いっしょに歩く青年の小ザックの中に常に必需品を詰めている。この中身は、重いから、今日は必要ないだろうなどとの理由からその日ごとに変更しない。何かをはずして出かけたときに、かならず、はずしたものが必要となる事態が発生することが多いからだ。
 緊急用の薬用品としては毒蛇に噛まれたときに飲む薬液とそれを薄める真水、消毒用のアルコール、包帯、ガーゼ、目にゴミが入ったときに使う目薬、抗生物質など。装備としては、いつでもどこでも火を燃やせるためにマッチやライター、ローソク、少量の石油とガソリン、落ち着く必要があるときのタバコ、集団ペッカリ-に遭遇したときに使う手製の縄梯子など。個々にポケットに入れているのが磁石、お互いの位置を確認するための笛、毒蛇よけのニンニクなどである。
 ベース生活の日課としては、おもに毒蛇対策として朝方の落葉の掃除、ベース周辺への夕食前の潰したニンニク撒きと、就寝前のタバコのシケモクも浸けた液体撒きなどがある。ほかに、テントや蚊帳を載せている桟敷、食糧庫の桟敷、食卓などを支える棒の根元部分に夕飯前に灰を撒く。これによって、蟻や毒虫(サソリやタランチュラなど)が登るのを防いでいる。
 日課ではないが鉄則としているのが、マチエテや包丁など刃物の一定箇所に置き場を決めておくこと。工具類は板に打ちつけた釘にかけておくことなどである。包丁は原則として一本を常用とし、特別の場合のみ2本を使う。ほかにあると思うことで、一本をどこかに置き忘れたまま放置することがたびたびあるからだ。一度、砂州で若者に、「さっき貸した小さな包丁を返してくれ」といったら、「どこに置いたかわからなくなった」といわれた。それからというもの全員(3人)で、炊事場とした焚火のまわりを探した。すると砂の中からその包丁があらわれた。砂州では誰もが裸足である。もし、踏んづけていたら大惨事になりかねなかった。
 ベースを築いてしばらくしてから川に近いところにビニールを張った小さな小屋を築いていた。月に一回程度でもあっても、夜中に大風をともなった豪雨に見舞われることがある。雷の閃光が砕け散る中で、今にも倒れんばかりに揺れ動いている大木が浮かび上がる。そのようなときの恐怖は計りしれなかった。そのため、暴風の豪雨が到来したときは避難する小屋がどうしても必要だったのである。
 これらのすべてがアマゾン奥地で生活する際の決めごとであり習慣であった。ほかにカヌアで遡下降するときの決めごともある。猛暑の日々では頭の中が煮上がっている状態で思考力が鈍る。無難、安全に過ごすにはワンパターン生活がいちばん似合っていたのである。
写真左から:ベースに張った私のテント。地面は毎朝掃除してきれいにしていた。テントの背面の青い布地部分は、『雨にも負けず、暑さにも負けず』の項で記した盗難に遭ったとき、刃物で切り裂かれたため張り替えたからからである。夜のベース。行灯のような箱は風で消耗の早くなるローソクをビニールで包むためのもの。右側に並ぶ箱類には野菜をはじめとした食糧が保管されている。砂州で流木を使った焚火。鍋やヤカンは10年以上同じものを使っている。